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2014年7月11日 17:24  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
8巻一余禄

  8巻には明治十年二月十七日の薩軍の鹿児島出発から熊本城に籠城する熊本鎮台軍との戦い、南下してくる政府軍との戦い、そして西南戦争の行方を決定づけた菊池川・高瀬の会戦までの戦況が描かれている。
 そして、最終章に「野の光景」が設けられていて、戦場となった肥後の別の面に目を向けている。...

 肥後(熊本県)は、一円に揺れている。この野に駆けまわっているのは、薩軍や熊本隊、協同隊といった士族だけではなかった。農民一揆が、各地で続発している。

 薩軍到来以来、その規模や人数は、日に日に大きくなっているが、乱ののち、裁判所に起訴された人数だけでも三万五千人を超える数字にのぼった。

 冷ややかに見れば、太政官政権が、金もなく、資本主義の基礎もかぼそいままに、産業革命によって欧米に成立した近代国家をにわかに作ろうとしたところに、原因があるであろう。極端にいえば弥生式農耕以来の米作だけが主生産である地域が、欧米的な意味での国家を称し、その内実を整えようとし、陸、海軍をもち、鉄道を敷き、港湾施設をととのえ、近代的製鉄業を興し、造船、造兵の工場をつくり、病院を建て、さらに大学をおこし、小学校を各府県の各町村にくまなく作ろうというのが、むりであった。それをおこなうには、金が必要だった。

 ところが、維新成立後も、士族と農村の経済体制は、徳川時代がそのままつづいている。農民は租税を米でおさめ、将軍も大名も士族はその米によって、幕府・藩財政および士族の家計を運営してきた。徳川期、貨幣制度がすでに商品経済を運転させていたとはいえ、実質的に主たる貨幣は、米であった。米では、第一、国際経済に参加することができない。

 このため、政府は農民に金で租税を納めさせる(金納)ことにし、明治六年に公布した。このことの混乱と反発が、当然農民のあいだにまきおこったが、この制度のために、自作農民の多くが金納しきれずに辛酸を舐め、また土地を売って没落する者も出、さらには地主が資本家化し、旧来、地主との間で封建的な隷属関係にあってそれなりに安定していた小作農民が、金だけの関係という、太古以来、経験もしなかった資本主義的環境の中にほうりこまれて、経済生活はいうまでもなく心理的にもどのように暮らしていいのかわからくなった。




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