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2014年7月13日 17:33  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
9巻 読了
熊本城…田原坂…人吉

もやはなかった。そのとき、田園に満ちている冷たい空気を引き裂くようにして、別府晋介の木葉山の砲がまず発射音をあげ、砲弾を乃木連隊の頭上に送りこんだ。着弾は遠すぎ、被害はなかった。いま一門の別府晋介の砲は、つづいて稲佐村の丘で白煙をあげた。砲弾は乃木連隊が行進しているあぜ道のそばの水田の中に落ちた。この二発の砲声が、のちにつづく田原坂の惨めの開幕を告げたといっていい。
...
政府軍は二つの経路を進もうとしている。本軍の経路の田原坂のほかに、その南方の吉次越えの道を、支軍が進んでいる。

射撃戦となると、小銃の優劣が大きな差をつくった。薩軍は、あわれであった。保塁に身を忍ばせて一発射つと、かれらが「百姓」と呼んでいる鎮台兵は、雨のように銃弾を注いでくる。
薩軍はつねに弾薬の欠乏を気にしていなければならなかった。

このあと十数日つづく田原坂の戦いにおいて政府軍は二十一万発の小銃弾を消費した。この数量は陸軍当局の想像をはるかに超えたものであり、わずか一会戦においてこれほどの弾薬が消費されるものであるとは、たれも思わなかった。

田原坂とその周辺で激戦がつづいている。ちなみに、いまなおこの付近の土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。敵味方の弾が空中でぶつかりあって互いに噛みあい、だんごのようになったもので、現在、田原坂の坂の上の通称「弾痕の家」と呼ばれる家にも、一つ、二つが保存されている。

総兵力はしばしば出入りがあって捕捉しがたいが、山鹿方面が三千、田原・吉次方面が六千五百人、あわせてざっと一万人である。政府軍はこれに対し、三月十一日朝を期して総攻撃を準備した。当日、暗いうちに各隊は所定の位置につき、号砲をまった。そのうち雨気が満ち、野も山も兵も払暁を見ないうちに濡れはじめた。雨脚はしだいにつよくなった。のち、肥後の俗謡に、雨は降るふる、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂、とうたわれる情景は、とくにこの日の記憶が詠ぜられたものかもしれない。越すに越されぬというのは薩軍の立場ではなく、政府軍の立場であった。田原坂をこさなければ熊本城に入ることは出来ないのである。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
薩軍と西郷が、大挙して九州の秘境というべき椎葉の大山塊に消えてしまったとき、肥後平野の政府軍は、なにかぼう然としてしまった気配がある。(どうすればよいのか)と、灰燼の町になりはてている熊本に入った参軍山県有朋は、途方に暮れるようなおもいがあったであろう。これまでのかれのあたまには、ともかくも籠城中の熊本城を救うべくその道を打通するしかなかった。それが容易でなかった。高瀬の戦い、山鹿の局地戦、田原坂での攻防、吉次越の難攻など、文字通り屍山血河の戦いをかさね、しかもかれの側では勝たず、南方からの黒田清輝軍の熊本への突きあげがあって、はじめて薩軍は熊本包囲を解き、すべての戦線を撤収して去って行った。

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