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2014年7月16日 17:45  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
10巻 読了

晋ドン、モウココデヨカ。

 五月二十九日に人吉を退いた西郷が、宮崎の町に入ったのは三十一日であるらしい。結局、彼はほぼ六十日間、宮崎の町にいた。
...
 わずかに一万数千の兵しかもたない薩軍は、それをこなごなに分散して南九州の山や谷、道路の要項に割拠しているが、海岸線の防衛までは手がまわらなかった。とくに大隅半島の海岸と日向海岸は大きく空いており、政府軍がここに目をつければ、各地の薩軍はこれに応接することが不可能にちかかったに相違ない。

 「遠く豊後(大分県)に突出して、山陽道および四国に進出する足がかりを作るべきだ」としたのは、野村忍介である。
 有馬源内が宮崎の町へ行って桐野に説いたが、「自分には別な見込みがある」として承知しなかった。桐野の見込みがどういうものであるか、見当がつかない。要するに桐野はかれの腹中の三州(薩摩・大隅・日向)嬰守策をすてなかった。

 野村忍介は日向にいる。延岡を本営として、北方の豊後攻撃の準備を進めている。しかし、忍介の本音は(まずいことになったかも知れない)というところであったであろう。かれの意図は、元来、西郷を含め、薩軍の全力をあげて豊後を攻撃し、ここに居すわり、鹿児島県は一時政府軍にあたえてしまうというものであった。九州における東方への地理的衝角である豊前・豊後に位置しなければ天下に対する政治・社会心理的な衝撃力がない、というものであったが、その大計画が桐野の反対で縮小して野村の軍はあたかも孤軍のようになっている。かれの手兵二千余ぐらいが豊後に入っても、どの程度の政戦略の効果があるかとなると、実効はきわめて疑わしい。

 すでに開戦以来、政府は全国の鎮台のほとんどを動員している。大坂、広島、熊本、名古屋、東京、仙台、近衛および教導団(下士官養成所)といったものが明治初年の陸軍の正規兵だったが、この動員数は四万一千三百余人。これに対し、半正規兵ともいうべき北海道屯田兵が五百人、さらに新兵七千五百人、後備兵として召集した兵が六千四百人。次いで、非正規兵ながら実際の戦闘では大いに活躍した警視庁巡査が五千七百人。あわせて六万を越える兵力が、常時一万余の人数しかもたない薩軍を討つために動員され、九州の各地で戦った。
 
 岩倉はそれでもなお不安であるとし、薩軍が人吉に拠っている五月二十九日「第二号召募」と称する大募集を行うことを決定した。ただし、基本方針として、「兵隊を増員しない。巡査の形として徴募する」とした。ただ巡査の場合、徴兵というわけにいかず、志願者の自由意志にまかさざるをえない。このため岩倉は、諸参議や陸軍省の留守員などと協議したすえ、さまざまな手を打った。

 そのひとつは、旧藩主を動かすことだった。「ぜひ、おくにの旧藩士たちに対して巡査に応募するよう周旋してもらいたい」と、説くのである。廃藩置県をやって封建制を廃止してしまった元凶の太政官の最高職の次席である岩倉が、廃藩置県の被害者たちに協力をもとめるというのは、歴史の皮肉といっていい。さらに皮肉なのは、かつて倒幕の主導勢力だった西日本の諸旧藩を除外したことだった。戊辰のときに薩長から賊軍視された諸藩をえらんだ。選ばれたのは、十八県であった。(かれらは、薩摩がにくいはずだ)ということを見込んだのである。県名は、三重、岐阜、愛知、静岡、神奈川、埼玉、群馬、長野、石川、栃木、茨城、福島、宮城、山県、秋田、岩手、青森、新潟の各県である。
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 政府軍の兵数は、七万に達している。城山の薩軍は、三百内外にすぎない。
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晋ドン、モウココデヨカ。

 別府は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって駕籠をおろさせ、従僕の小杉・豊富の両人に介添えされて地上に立った。かれは天地のなににもまして西郷がすきだったが、このとき気丈に抜刀し、西郷の背に立ったのは、西郷の介錯をするという栄誉と義務感にささえられていたからに相違ない。「御免なって賜(た)も」というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

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