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2014年7月14日 17:37  馬甲・馬冑
昨日は高久健二先生の連続7回講座『加耶諸国の古墳文化を探る』の第3回「安羅国の古墳−咸安・道項里古墳群を中心に−」がありました。
メモです。
木棺墓…弁韓安邪国(弁韓十二国のひとつ)時期の紀元前1世紀代から墳墓が造営される。紀元前1世紀後半頃から鍛造鉄器が副葬される。牛角形把手付壷など。...

木槨墓…4世紀から5世紀前半代。鉄テイ、鉄鏃、鉄斧、ガラス玉、有刺利器、環頭大刀、X字環状鏡付轡など。高杯に特有の透かし。

馬甲塚…5世紀中葉。馬甲一式、馬冑、セットをなし良好な状態で出土。

堅穴式石槨墓…5世紀後半代。5世紀後半代に墳丘をもつ王墓群が集中して作られている。

横穴式石室墓…6世紀前半。『日本書紀』欽明二年(541)、五年(544)の「任那復興会議」→その後まもなく新羅に投降。

城山山城…安羅国滅亡後の新羅木簡246点が出土。洛東江上・中流域から城山山城に送られた穀物や鉄などの物資に付けられた荷札。新羅の重要拠点。
和歌山の大谷古墳、先日、訪れたさきたま古墳群の将軍山古墳、副葬品のひとつに馬冑があったことを思い出します。

最近の話題では『船原古墳』もあります。馬具ひとつとってもおもしろい。
※掲載は埼玉県立さきたま史跡の博物館発行『ガイドブックさきたま』より

 


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2014年7月13日 17:33  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
9巻 読了
熊本城…田原坂…人吉

もやはなかった。そのとき、田園に満ちている冷たい空気を引き裂くようにして、別府晋介の木葉山の砲がまず発射音をあげ、砲弾を乃木連隊の頭上に送りこんだ。着弾は遠すぎ、被害はなかった。いま一門の別府晋介の砲は、つづいて稲佐村の丘で白煙をあげた。砲弾は乃木連隊が行進しているあぜ道のそばの水田の中に落ちた。この二発の砲声が、のちにつづく田原坂の惨めの開幕を告げたといっていい。
...
政府軍は二つの経路を進もうとしている。本軍の経路の田原坂のほかに、その南方の吉次越えの道を、支軍が進んでいる。

射撃戦となると、小銃の優劣が大きな差をつくった。薩軍は、あわれであった。保塁に身を忍ばせて一発射つと、かれらが「百姓」と呼んでいる鎮台兵は、雨のように銃弾を注いでくる。
薩軍はつねに弾薬の欠乏を気にしていなければならなかった。

このあと十数日つづく田原坂の戦いにおいて政府軍は二十一万発の小銃弾を消費した。この数量は陸軍当局の想像をはるかに超えたものであり、わずか一会戦においてこれほどの弾薬が消費されるものであるとは、たれも思わなかった。

田原坂とその周辺で激戦がつづいている。ちなみに、いまなおこの付近の土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。敵味方の弾が空中でぶつかりあって互いに噛みあい、だんごのようになったもので、現在、田原坂の坂の上の通称「弾痕の家」と呼ばれる家にも、一つ、二つが保存されている。

総兵力はしばしば出入りがあって捕捉しがたいが、山鹿方面が三千、田原・吉次方面が六千五百人、あわせてざっと一万人である。政府軍はこれに対し、三月十一日朝を期して総攻撃を準備した。当日、暗いうちに各隊は所定の位置につき、号砲をまった。そのうち雨気が満ち、野も山も兵も払暁を見ないうちに濡れはじめた。雨脚はしだいにつよくなった。のち、肥後の俗謡に、雨は降るふる、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂、とうたわれる情景は、とくにこの日の記憶が詠ぜられたものかもしれない。越すに越されぬというのは薩軍の立場ではなく、政府軍の立場であった。田原坂をこさなければ熊本城に入ることは出来ないのである。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
薩軍と西郷が、大挙して九州の秘境というべき椎葉の大山塊に消えてしまったとき、肥後平野の政府軍は、なにかぼう然としてしまった気配がある。(どうすればよいのか)と、灰燼の町になりはてている熊本に入った参軍山県有朋は、途方に暮れるようなおもいがあったであろう。これまでのかれのあたまには、ともかくも籠城中の熊本城を救うべくその道を打通するしかなかった。それが容易でなかった。高瀬の戦い、山鹿の局地戦、田原坂での攻防、吉次越の難攻など、文字通り屍山血河の戦いをかさね、しかもかれの側では勝たず、南方からの黒田清輝軍の熊本への突きあげがあって、はじめて薩軍は熊本包囲を解き、すべての戦線を撤収して去って行った。

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2014年7月13日 17:29  『縄文人からの伝言』
岡村道雄 著
集英社新書



 


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2014年7月12日 17:27  北の縄文と南の支石墓
今週は中村大介先生連続5回講座『東北アジアの青銅器文化と民族』
第2回「支石墓の世界」
岡村道雄先生連続3回講座『日本の基層文化を考える−秋田県北・津軽、北海道南の縄文遺跡−』
第3回 函館市の大船・垣の島遺跡、北海道南部でのアスファルト製造遺跡
の講座があった。...

両講座のレジュメ掲載の2つの地図を見て思うこと.。

同じ日本の南と北の古代史、時代的に違うとしても、私には支石墓といえばすぐに韓国や遼東半島が浮かんだ(実際に見もした)が、北海道の縄文は想像も出来ない。北海道に縄文!!広く周りを見てみると北海道の対岸、沿海州、アムール川、千島・樺太などなどとなれば全く想像も出来ない。
なんたる偏向。これじゃ日本の古代といったって全体を見ていないんじゃあないだろうかという疑問が沸き起こる。見たとか以前に知識としても欠落している。

ゆがんだ歴史像をもっているんじゃあないだろうか・・・。
ともかく,北へ。一度、東北・北海道へ行ってみよう。






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2014年7月12日 17:25  こんな邪馬台国論はどうでしょうか? 2
『新視点から纒向の国に迫る−祭祀と大麻と忌部氏と−』

 纏向祭祀遺跡から出土の桃の種からの推論は散見するが、同時出土の麻の種は見落とされている。というか。(大)麻はご法度ですからあえて口出しする学者もないのだろうか。ここに注目されたのが山口博先生です。
 図示するとこういうことになるそうです。
...
 松本清張ばりのご推理ですが、図を見てみなさん、納得?殊に、とかく考古学と神話の世界は別物とお考えの方・・・。

最近では森浩一先生ぐらいかなあ(お亡くなりになったことが残念です)、正面から『記紀』にも挑戦された考古学者は・・・。いや神話に手を出す大御所でない考古学徒はつぶされるのかな(余計な邪推ならごめんなさい)。
反論、異論、立場の違い、いろいろあるほうがアマチュア席からの歴史観覧はたのしい。やっぱり、邪馬台国はぬけだせません。




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2014年7月11日 17:24  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
8巻一余禄

  8巻には明治十年二月十七日の薩軍の鹿児島出発から熊本城に籠城する熊本鎮台軍との戦い、南下してくる政府軍との戦い、そして西南戦争の行方を決定づけた菊池川・高瀬の会戦までの戦況が描かれている。
 そして、最終章に「野の光景」が設けられていて、戦場となった肥後の別の面に目を向けている。...

 肥後(熊本県)は、一円に揺れている。この野に駆けまわっているのは、薩軍や熊本隊、協同隊といった士族だけではなかった。農民一揆が、各地で続発している。

 薩軍到来以来、その規模や人数は、日に日に大きくなっているが、乱ののち、裁判所に起訴された人数だけでも三万五千人を超える数字にのぼった。

 冷ややかに見れば、太政官政権が、金もなく、資本主義の基礎もかぼそいままに、産業革命によって欧米に成立した近代国家をにわかに作ろうとしたところに、原因があるであろう。極端にいえば弥生式農耕以来の米作だけが主生産である地域が、欧米的な意味での国家を称し、その内実を整えようとし、陸、海軍をもち、鉄道を敷き、港湾施設をととのえ、近代的製鉄業を興し、造船、造兵の工場をつくり、病院を建て、さらに大学をおこし、小学校を各府県の各町村にくまなく作ろうというのが、むりであった。それをおこなうには、金が必要だった。

 ところが、維新成立後も、士族と農村の経済体制は、徳川時代がそのままつづいている。農民は租税を米でおさめ、将軍も大名も士族はその米によって、幕府・藩財政および士族の家計を運営してきた。徳川期、貨幣制度がすでに商品経済を運転させていたとはいえ、実質的に主たる貨幣は、米であった。米では、第一、国際経済に参加することができない。

 このため、政府は農民に金で租税を納めさせる(金納)ことにし、明治六年に公布した。このことの混乱と反発が、当然農民のあいだにまきおこったが、この制度のために、自作農民の多くが金納しきれずに辛酸を舐め、また土地を売って没落する者も出、さらには地主が資本家化し、旧来、地主との間で封建的な隷属関係にあってそれなりに安定していた小作農民が、金だけの関係という、太古以来、経験もしなかった資本主義的環境の中にほうりこまれて、経済生活はいうまでもなく心理的にもどのように暮らしていいのかわからくなった。




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2014年7月11日 17:20  司馬遼太郎『跳ぶが如く』
7巻・8巻一気読み終了。あと9・10の二巻。 田原坂から城山への道が残る。

シモタ

薩人で終始官界にあって栄達した西郷の旧友吉井友実は、「西南ノ変の火付け役は海老原穆(ぼく)の評論新聞である」といっているが、評論新聞は、川路が警察官を帰郷させようと思い立った早々の段階において嗅ぎつけ、それを暗殺者と見、鹿児島旧城下の有力者へ報じている。
九年十一月中、流言あり。政府密に刺客を鹿児島に遣はし、西郷大将を暗殺せんとすと。...

草牟田にも陸軍火薬庫(火薬局)がある。ときに、政府による討薩や西郷を暗殺するという噂の充満しているおりでもある。
「政府がすでにその気であれば、すべからく機先を制し、これをわが手にオサムべきではないか」
ということになり、深夜十二時を期し、二十余人が参加し、火薬庫を襲い、番人を縛り上げ、小銃弾六万発をうばった。ただし、私学校幹部の知るところではない。

反するも誅せらる。反せざるも誅せらる。如かず、大挙して先発せんと。という文章は、のち、太政官側の柳原前光が鹿児島に入って事情を調べたあと、岩倉具視に書き送った書簡(明治十
年三月十八日付)のなかのものである。この書簡は西郷の決起事情を書いたもので、簡略ながら当を得ている。この場合の心事と決断についても、適用しうるであろう。篠原は桐野の決断に賛成し、一同もそれに従った。桐野は、辺見十郎太と成尾常経をかえりみて、
「すぐ巨大目(うどめ)(西郷さァに)」
と、命じた。

「シモタ!」
西郷は、最初、そうつぶやいたらしい。漢語でいえば「万事休ス」とか「ワガ事畢(おは)ル」とか「大事去ル」といったことばになるであろう。

西郷の衝撃は、その胸中の思惑も構想も、この状況の発生ではじけ飛んだということであろう。かれは私学校という士族団をロシアの南下に備えるために使おうとしていた。そういう大状況がいつかは到来すると思い、それまで薩摩の士気を保存しようとしていたが、かれの生徒たちは目前の太政官の挑発にやすやすと乗り、一揆化した。

西郷が、私学校の幹部たちに自分の決意を告げたことばというのは、
「そいじゃ。俺(おい)の体を上げまっしょう」ということだったという。

西郷、云く。大将の任たるや、全国の兵を率ゆるも、天皇陛下の特許にして、即ち大将の権内なり。時機次第、鎮台兵も引率すべし。
西郷は、辞職こそしたが、政府がなお俸給を送りつづけているため、陸軍大将であることにかわりがない。大将というのは、陸海軍創設早々のこの時代、西郷一人しかいなかった。海軍は中将どまりであった。

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