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『トンボの眼』バックナンバー

No.15 2009年4・5・6月号
日本隊によるインド・アジャンター石窟に
おける壁画保存修復事業の開始

前田耕作  東京文化財研究所客員研究員、和光大学名誉教授

日本隊が担当するアジャンター第2窟・内観

 和辻哲郎の『古寺巡礼』(大正8年初版)を手にしたものなら誰もがその冒頭に掲げられたアジャンター壁画の模写の話を思い起こすことだろう。和辻が見た模写は、大正6年から7年にかけて国華社からインドに派遣された画家荒井寛方らによる模写であった。しかしこの日本人による最初の模写は大正12年の関東大震災により焼失してしまった。和辻の『古寺巡礼』の紙型もまたこのとき失われたが、翌13年には新版が出された。和辻がこの貴重なアジャンター壁画の模写に触れたのは、『古寺巡礼』の終章を飾る法隆寺訪問の記事の中でももっとも美しく語った金堂壁画の画譜を論ずるための序を意識していたからであったと思われる。「ただ眺めて酔うのみである」と、溢れ出ようとする言葉を控えてただただ金堂西壁の阿弥陀浄土の図を凝視する和辻の脳裏を駆け巡ったのは、ギリシアや西域の香りも漂わせるアジャンターの不思議な多様さであった。

 初期の模写は自然の災害によって失われたが、アジャンターの壁画模写は壁画の保存作業の一環として早くから始まっており、また同時に壁画面にワニスを塗るといった荒っぽい保存作業も19世紀の末すでに行なわれていたのである。20世紀に入ってからは、1920年代の初頭にイタリアから壁画修復の専門家であったロレンツォ・チェッコーニを招いてワニスの除去や剥落止めの作業が行なわれた。

 1947年インドは独立をかち取ると、アジャンター石窟を国宝に指定(1951年)し、その保存事業をインド考古局(ASI)の管轄下におき、1953年から今日に至るまで自然的、経済的、技術的な保存事業にかかわるさまざまな困難な条件と向き合いながらも、自力で事業を継続してきている。

アジャンター第2窟・外観

 アジャンター石窟が世界遺産に登録されると、インド政府は遺跡の保存を本格化し、新しい技術導入を模索し始めた。2005年1月、インド政府(インド文化省・インド考古局ASI)とイタリア政府(イタリア外務省・文化遺産省・ローマ中央修復研究所ICR)との間で「世界遺産に登録された29の仏教石窟からなるアジャンター考古遺跡のうち、第17窟に限定して協働の保存事業を実行する」旨の合意書が交わされ、今日なおこの事業は続行中である。

 2007年2月、国立インド博物館でこの事業の進捗を報告するセミナー「アジャンター考古遺跡インド・イタリア保存事業に係る所見」が開催された。また同時に館内で「アジャンター石窟壁画の保存」と題する主として写真による展示会も併催された。

可搬型蛍光X線分析装置を用いた元素分析

 セミナーではイタリア側はローマ中央修復研究所の専門家たち(4名)が第17窟の物理的・化学的・生物学的調査の結果や壁画の技術的処理、技法調査、3次元レーザースキャンによる調査結果などを報告し、インド側(3名)はこれまでインドが行なってきたさまざまな保存についての経緯の総括、壁画と彫刻の保存、地質学的調査の結果などを報告した。

 このセミナーへの参加を文化庁から要請された私と大竹秀実の両名は、バーミヤンにおける壁画保存事業に従事する東京文化財研究所の一員としてその成果の一端を報告するようにというインド側の求めに応じ、前田が「日本はアジャンター石窟の保存に何が寄与できるか」、大竹が「バーミヤンにおける壁画保存作業の経験とシルクロードの壁画研究」というテーマで報告をおこなった。日本の海外における文化遺産の保存修復の活動をインドで知ってもらう重要な機会となったことは疑いない。

 その後、インド考古局やアジャンター石窟で壁画保存事業の現場を取り仕切ってきたマネージャー・シン氏やインド文化の普及に大きな力を振るっているベノイ・ベヘル氏らの支援、デラドゥン・インド考古局の科学部長ラナ氏の奔走、文化庁の適切な対応、東京文化財研究所の粘り強い折衝が実を結び、2008年3月、ついにインド考古局と東京文化財研究所との間で「アジャンター石窟壁画の保存修復に関する人材育成・技術移転」に係る合意書を取り交わすに至った。

 世界遺産アジャンター考古遺跡で壁画の保存修復の事業をインドとともに進める協働の場が設定された意義は計り知れないほど大きい。さらにはこれまで模写や美術史的な図像研究に終始してきたアジャンターの調査研究が、壁画の色彩構造やその保存問題の核心に迫る機会をえたことで、学術的にも新しい展開をみせることと大いに期待される。

彩色の調査をする日本とインドの専門家たち

 本年2月12日から3月15日まで、すでに延べ12名の若い専門家たちが与えられた第2窟と第9窟で壁画保存の第1次作業を始めている。現地で持続的に保存事業に携わるインドの人材の育成も大切だが、わが国の海外文化遺産保存にかかわる次世代の育成も緊急不可欠の課題である。このアジャンター壁画保存事業がその意味においても「文化遺産国際協力拠点交流事業」の一つの重要な試金石になるにちがいない。

写真提供/独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所・文化遺産国際協力センター