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『トンボの眼』バックナンバー

No.19 2010年6・7・8月号
『玄奘三蔵、シルクロード行く』を書いて

前田耕作  アフガニスタン研究所所長・和光大学名誉教授

ウズベク・カンカ

 久しぶりに小著をいっきに書き下ろした。『玄弉三蔵、シルクロードを行く』(岩波新書)である。シルクロードの世界遺産化の大きな国際的な流れから日本が取り残されそうな状況にあることに危機感を感じたことも動機の一つであった。このところわが国のどこか内向的な政治的情勢も手伝って変動する世界の潮流から急速にはずれつつあるように思えたからである。

 もちろん中央アジアを歩いたからといって玄奘が立ち止まり、みつめたものがそこにあるわけではない。千数百年の時間の彼方に辛うじて残る文化の痕跡がかすかに感じ取れるに過ぎない。しかしなんといっても玄奘が帰国後すぐに口述筆記させた旅の記録『大唐西域記』(649年)という壮大なエクリチュール(書記)があるがゆえに見えないものが見えてくる。それは読書に夢中になったとき、頁や文字など気にならなくなり、ありありと浮かび出るイメージを追いかけるのと同じである。

 玄奘自身が残した見聞の言葉、この言葉について時代を経て残されたいくつもの言葉、これらの言葉の配列を変え、重ね合わせることで見えてくるものを玄奘の旅のままに私は辿ってみたが、その足跡をみつめる余りついには玄奘の幻影を追ったのかもしれない。とりわけ中央アジアについては考古学的な活動の成果がかならずしも深化していないという現況も改めて知らされた。例えば石国(タシュケント)の都城ではと考えられる美しい城塞をもつカンカ城址(写真)や康国(サマルカンド)の都城アフラシアブの廃址に想いをめぐらすとき、ふと筆がとまる。

 さらに南へと下りやがて咀蜜国(テルメズ)に至るわけだが、その間の東方に広がる国域についてはみな伝聞の国とされ、記述の前後に初めて大きな乱れがあってしばしば再考を促される。この地域を北から南へと流れ下り縛蒭河(アムダリア)へと注ぐ主な川は、西から東へ、スルハン川、カフィルニガン川、ワクシュ川で、平流している。そしてこれらの川の河畔に仏堂伽藍を擁する四つの国があると玄奘は伝聞したのである。四つの国とは、西から赤鄂衍那(せきがくえんな)国(チャガヤーナ)、忽露摩国(ハルーム)、愉漫国(シュマン)、鞠和衍那国(クワーヤーナ)である。チャガヤーナ国はスルハン川の上流にあるデナウに比定され、ハルーム国はデナウとドゥシャンベの間、つまりスルハン川の上流とカフィルニガン川の間に、クワヤーナ国はカフィルニガン川とワクシュ川の間の南方に位置しているという。そしてシュマン国はカフィルニガン川の上流域にある現在のドゥシャンベに当たるという。

 中央アジアの仏教考古学の未来に投じられた素晴らしい情報である。スルハン川中流域のダルベルジン・テペで確認された仏教文化の詳細な研究もまだ始まったばかりだが、タジキスタンに存在する仏教遺跡の発掘調査は大きな期待がもてるだけではなく、玄奘のいわゆる「覩貨邏」(トハラ)の全貌を知るうえでも不可欠なものである。玄奘の時代より下るといわれる大涅槃像(13メートル)の出土をみたアジナ・テペ、仏塔を中心に造営されたこの寺院のリトゥヴィンスキーによる発掘調査も十分なものとは思われない。タジキスタン古代博物館のアーカイヴに保存されているというソ連時代の発掘記録などを掘り起こし、再検討する必要もあるだろう。

玄弉三蔵、シルクロードを行く

 また日本の手で行われたこの遺跡の保存も満足なものとは言い難い。発掘址と現場保存の問題は考古学と保存科学との間でそれぞれ異なった知見と経験を踏まえ、方法論だけではなく美学にも及ぶ十分な意見交換がなされなければ評価される結果に到達することはできない。

 玄奘が記録に留めた諸寺の所在を突き止め、その寺々との関係からアジナ・テペの一見孤立してみえる位置の意味を探り当てることも重要な課題である。

 シルクロードの世界遺産登録を目前にして、ユネスコがイコモスにシルクロードの建造物・遺跡の比較研究を委託しようとしている今、あれほどの熱気をシルクロードに注いできた日本が、まったく埒外に佇んでいてよいのか、国際貢献とはこんなに軽薄なものであってよいのか、胸を痛いものが突き抜ける。