PAGETOP

旅行案内

2012年『シリーズ・魏志倭人伝の道』
第1回 「北部九州に邪馬台国を探る」

 『魏志』倭人伝に描かれた邪馬台国の北部九州から壱岐、対馬、釜山周辺(伽耶諸国)、韓国南・西海岸(狗邪韓国)、魏の出先があった帯方郡の比定地・ソウル、黄海を渡って中国の山東半島、そして魏の都であり卑弥呼の使いが行った洛陽まで、シリーズ5回に分けて訪れます。既に同コースを4回訪れた『トンボの眼』佐々木章が随行いたします。

期間:2012年1月17日(火)〜1月20日(金)=4日間
旅行代金:118,000円(2名1室)
一人部屋追加料金: 7,000円
食事:朝3・昼4・夕3回付
最少催行:10名
定員:25名
添乗員:羽田空港より同行します。
◆ 羽田発着
◆ 企画:『トンボの眼』編集室
◆ 旅行企画・実施:株式会社 道祖神
◆ 旅行取り扱い:株式会社 Jトラベルセンター

旅程

■ 1日目
羽田空港(08:30)→日本航空JAL313→(10:30)=板付遺跡(福岡市)=奴国の丘歴史資料館、須玖岡本遺跡(福岡市)=吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)=佐賀市
(佐賀市泊)
■ 2日目
佐賀市=車塚古墳=堤古墳=女山神籠石=山門郡=岩戸山古墳(八女市)=高良神社(久留米市)=平塚川添遺跡(朝倉市)=博多
(博多泊)
■ 3日目
博多=飯塚市歴史資料館、立岩遺跡出土品(飯塚市)=御所ヶ谷神籠石=行橋市歴史資料館(行橋=石塚山古墳(苅田町)=宇佐
(宇佐泊)
■ 4日目
宇佐=赤塚古墳=宇佐風土記の丘=大分県立歴史博物館=宇佐神宮(大分県宇佐市)=福岡空港(19:25)→日本航空JAL338→(20:45)羽田空港、解散

シリーズのご案内

第1回 「北部九州に邪馬台国を探る」 1月17日(火)〜1月20日(金) 4日間
第2回 「対馬国から一支国・末盧国・伊都国へ」 3月6日(火)〜3月9日(金) 4日間
第3回 「加耶諸国へ」 6月21(木)〜24日(日) 4日間
第4回 「帯方郡から狗邪韓国へ」 9月27日(木)〜10月1日(月) 5日間
第5回 「帯方郡から魏の都・洛陽へ」 12月6日(木)〜15日(土) 10日間
※2012年1月〜12月、2013年1月〜12月まで同時期に2巡して同シリーズを予定します。


資料請求・お申し込み

上記の国内旅行・海外旅行は『トンボの眼編集室』が企画し、国内旅行は株式会社Jトラベルセンター(東京都知事登録旅行業第2-5961 東京都港区浜松町1-7-3 第一ビル3)が旅行企画・実施する募集企画型旅行です。また海外旅行は(株)道祖神(観光庁登録旅行業第757号東京都港区芝5-13-18 MTCビル 9F)が旅行企画・実施する募集企画型旅行です。

お問合せ、資料請求、お申込みは旅行取り扱い会社Jトラベルセンターまで。

株式会社Jトラベルセンター
〒105-0013 東京都港区浜松町1-7-3 第一ビル3階
TEL:03-6402-7585 FAX:03-6402-7583
担当:田中・水沢

※資料請求受付は終了いたしました。



旅のコラム「シリーズ・魏志倭人伝・第1回」

コラム1 邪馬台国論争

 論争の渦中にある邪馬台国の所在地ですが、諸説がある中で、九州説と畿内説が有名ですが、この論争は古くは本居宜長(九州説)や新井白石(畿内説→九州説)、明治に入ってからは白鳥庫吉(九州説)と内藤湖南(大和説)の論争があり、この二つの流れが現在までひきつがれていると言えます。議論の焦点としては、「魏志倭人伝」に記述されている韓国の帯方郡から邪馬台国までの1万2000余里の距離のほか、方位や日数をどう解釈するかということで、現在は「魏志倭人伝」に登場する国のうち、對馬国=対馬、一支国=壱岐、末慮国=唐津、伊都国=糸島、奴国=福岡・筑紫が明らかにされていますが、その先の国が特定できていません。
 明治43年、白鳥庫吉は、「魏志倭人伝」の卑弥呼に関する記述と「古事記」「日本書紀」の天照大御神の記述が酷似しており、天照大御神は卑弥呼を反映、高天の原は邪馬台国を反映しているとの考えを示し、この考え方は後にも受け継がれ、邪馬台国東遷説へと発展しました。「古事記」「日本書紀」の神話と「魏志倭人伝」との間の相関関係を主張する同様の考え方は、「まぼろしの邪馬台国」の著者・宮崎康平など多数の研究者に支持され、邪馬台国九州説を補強することになりましたが、昭和42年に安本美典が「魏志倭人伝」のほか、古事記・日本書紀、考古学の見地に加えて、数理統計的手法を駆使して打ち出した邪馬台国甘木朝倉説を発表しました。彼はその著「最新・邪馬台国の道」で次のように持論を展開しています。(1)「魏志倭人伝」の記す事実 (2)「古事記」「日本書紀」の神話、伝承の伝えるところ (3)考古学的事実から科学的に導かれる邪馬台国甘木説・・・天照大御神=卑弥呼、高天の原=邪馬台国、邪馬台国=甘木、邪馬台国東遷説=大和朝廷 筑後川のたまものとして3世紀に勃興した邪馬台国は、この世紀の終わりに倭王神武にひきいられて東遷し、大和朝廷になった・・・。吉野ヶ里遺跡の発見に引き続き、黒塚古墳で出土した33枚の三角緑神獣鏡やホケノ山古墳で出土した画文帯神獣鏡、最近ではマキ向遺跡での大型建物跡の発見などが論争に益々拍車をかけています。
 邪馬台国は、多くの国民の心を引きつける古代ロマンですが、論争の終焉を迎えるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。


コラム2 磐井の乱

 6世紀前半に起こった筑紫君(国造)の反乱。『日本書紀』継体天皇21年6月条によると、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)は6万の軍隊を率いて任那に赴き、新羅に攻略されていた南加羅と碌己呑(とくことん)を再興して任那にあわせようとした。新羅はひそかに反逆の志ある筑紫国造磐井に賄賂を贈り、毛野臣の軍を防ぐよう勧誘した。磐井は、火(肥)、豊の両国に勢力を張り、毛野臣の軍を遮った。8月になって、天皇は、大連(おおむらじ)物部麁鹿火(もののべのあらかび)に磐井を討つように命じ、翌22年11月に大将軍麁鹿火は磐井と筑紫の御井(みい)郡(福岡県三井郡)で交戦しこれを斬った。12月、筑紫君葛子(くずこ)は父に連座することを恐れて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪を免れたとある。一方、『古事記』では、継体天皇の御世、筑紫君磐井が天皇の命に従わなかったので、物部荒甲大連と大伴金村(おおとものかなむら)連の2人を遣わしてこれを殺した、と簡単に記述されている。『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)も『古事記』の理由と変わらないが、在地に密着した別伝を載せている。それによると、上妻県(かみつやめのあがた)(福岡県八女郡の北東部)の南2里に筑紫君磐井の墓墳があり、それは磐井が生前から造営したもので周囲や別区に石人・石馬、石盾などの石造物を配置してあるという。また、磐井は官軍に勝てそうもないことを知って、ひとり、豊前国上膳県(かみつけのあがた)(福岡県筑上(ちくじょう)郡の南部)に遁走して死んだこと、官軍は磐井を逃がして怒りやまず、磐井の墓の石人・石馬を破壊して鬱憤を晴らしたと伝えている。磐井の反乱が『書紀』のいうように1年半に及ぶ大規模なものであったのか、またその反乱の原因に新羅がかかわっていたのかについては、『書紀』の記事には『百済本紀(くだらほんぎ)』によって説明した部分、漢文的修飾を受けている部分が多く、史実は『古事記』の記事以上を出るものでないとする見解もある。ただ、考古学の方面から、岩戸山古墳が『筑後国風土記』の伝える磐井の墓のようすと適合することが証明され、しかもこの古墳を特徴づける石人・石馬の分布が、筑紫のみならず磐井が勢力基盤とした火・豊国にも及んでいることなど、『書紀』の一部の信憑性を裏付けるものとなっている。この乱の意義については、従来、大和朝廷の朝鮮出兵の負担に耐えかねた地方豪族(国造)の反乱というのが通説であったが、近時、この乱は、畿内王権とそれとは相対的に自立性をもった筑紫勢力(北部九州勢力)との外交権掌握をめぐる対立であり、筑紫勢力は畿内王権を離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯倉が設定され、筑紫勢力は、中央王権の一地方(国造)として秩序づけられることなったということになる。


コラム3 徐福・渡来人・卑弥呼

 紀元前210年、秦の始皇帝は、五穀の種子と金銀、農耕機具、技術(五穀百工)をともなった若い3000人の男女を与え、徐福に不老不死の薬草を探しに東海に船出させた。日本にたどり着いた徐福の一行は有明海から筑後川、矢部川を経て佐賀の諸富、瀬高、八女へと広がり、やがて3000人余の機織職人、紙職人、農耕、木工、製鉄造船、漁業の技術者はこの地帯に高度な小国を誕生させた。徐福の集団の渡来以後、大陸などから多数の渡来人が入り込み、高度な文化を営む小国家が誕生、渡来人の増加により争いごとも増え、戦いも絶えず乱れたが、239年、女王山(ゾヤマ)の卑弥呼が30余の国々をまとめ、連合国の女王になって邪馬台国が誕生する。邪馬台国後期になって力ある豪族は東に新天地を求め、ついに畿内に入って大和朝廷を誕生させた。527年、大和朝廷は当地の王、筑紫国造磐井と戦い、筑後地方をも支配下に治める。邪馬台国地方権力の完全な終焉であった。
 話の真偽はともかく、弥生期になると有明海沿岸に大陸や朝鮮半島から渡来人がやってきて内陸に水稲稲作を伝え、この地を開発していったであろうことは確かなようだ。