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旅行案内

田中俊明先生同行解説
『百済王都をめぐる(2)扶餘・益山編』

 漢城から公州、そして538年に再度、泗沘(扶餘)へ都を南遷、そして白村江の戦いでの滅亡・・・今回の旅『扶餘・益山編』では百済中・後期の王都・扶餘から滅亡の故地・錦江河口までー扶余、益山、群山、舒川まで田中俊明先生のご案内で丹念に訪ねます。現地に精通された田中俊明先生同行解説ならではの充実の旅です。

期間:2012年9月23日(日)〜9月26日(水)=4日間
同行解説:田中俊明 先生(滋賀県立大学教授)
旅行代金:168,000円
一人部屋追加料金: 24,000円
食事:朝3、昼3、夕3回付
添乗員:羽田空港より『トンボの眼』・佐々木が同行します。
◆ 羽田発着
◆ 企画:『トンボの眼』編集室
◆ 旅行企画・実施:株式会社 道祖神
◆ 旅行取り扱い:株式会社 Jトラベルセンター

募集チラシをこちらよりダウンロードしてご覧頂けます。

>>『百済王都をめぐる(2)扶餘・益山編』チラシ(PDFファイル、拡大してご覧ください)

旅程

■ 1日目
羽田空港(8:25)→JL091→(11:00)金浦空港=扶餘(扶餘博物館・定林寺址・官北里遺跡・軍守里寺址・宮南池)
(扶餘・ロッテリゾート泊)
■ 2日目
扶餘(王興寺址・扶餘文化財研究所展示室・扶蘇山城・白馬江・錦城山(タクシー利用)・青山城・東南里寺址ほか)
(扶餘・ロッテリゾート泊)
■ 3日目
扶餘=論山(黄山原古戦場)=益山(弥勒寺址・同展示館・王宮里遺跡・同展示館・帝釈寺址・双陵・円光大学校博物館)
(益山・益山グランドホテル泊)
■ 4日目
益山(笠店里古墳群・同展示館)→群山(群山大学校博物館)→舒川(錦江河口・白村江推定地)→金浦空港(19:20)→JL094→(21:25)羽田空港・解散。

資料請求・お申し込み

上記の海外旅行は『トンボの眼編集室』が企画し、(株)道祖神(観光庁登録旅行業第757号東京都港区芝5-13-18 MTCビル 9F)が旅行企画・実施する募集企画型旅行です。

お問合せ、資料請求、お申込みは旅行取り扱い会社Jトラベルセンターまで。

株式会社Jトラベルセンター
〒105-0013 東京都港区浜松町1-7-3 第一ビル3階
TEL:03-6402-7585 FAX:03-6402-7583
担当:宮地・水沢

※資料請求受付は終了いたしました。



旅のコラム 1 建国神話

 百済の始祖については様々な系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるものとなっている。『三国史記』百済本紀によると前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚によって建国されたとされる。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄してないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になった。これは扶余から色んな勢力が南下し国を起こしたが、軍事・経済的に優れた温祚勢力によって統合され、その結果として百済という国が作られたことを意味してるのだろう。


旅のコラム 2 前期、漢城時期( - 475年)

 中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである(『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている)。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたとされるソウルの風納土城、夢村土城がその遺跡と考えられている。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の高句麗との死闘を繰り返した。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。


旅のコラム 3 中期、熊津時代(475年 - 538年)

 王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。