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世界遺産・遺跡案内

スリランカのゴール・フォート

中井 均  聖泉大学非常勤講師

 インド大陸が一粒の涙をこぼしたようだといわれるスリランカは、大航海時代にはヨーロッパとアジアを結ぶ中継点として重要な位置を占めていた。16世紀初めにはポルトガルがシナモンを求めてスリランカを統治下に置き、さらにオランダは1639年にトリンコマリー、1640年にネゴンボ、ゴールを攻略し、コロンボにセイロン提督を、ゴールとジャフナに副提督を配し、全島に要塞を建設した。その数はA・F・ランカーによると21ヶ所にのぼるという。その大半は要塞のみで兵が駐屯するだけの施設であったが、ゴール、コロンボ、ジャフナは都市全体を城壁で囲い、城壁には多くの稜堡を設けた、城塞都市であった。とりわけゴールはスリランカ最大の城塞都市で、インド洋に突出した半島部がフオート・エリア、海岸部の商店街エリア、丘陵部の住宅エリアから構成されている。フォートはポルトガル人がゴールを拠点として貿易を開始したのと同時に建設が始められ、17世紀初頭には半島を陸部より分離させるために濠が掘られるなどの改修がくり返された。1640年にオランダがゴールを占領すると本格的な要塞建設に取り組み、東端にステル(星)、中心部にゾン(太陽)、西端にアマン(月)と呼ばれる稜堡を築いた。城壁には褐色花崗岩が用いられ、その城壁は周囲3km、面積35haという巨大な要塞が完成した。さらに18世紀になると城壁の稜堡は11ヶ所に増築され、陸部との濠には跳ね橋が架けられた。

 ゴール・フォートの入口にあたるオールド・ゲートにはオランダ東インド会社の紋章が今も残る。フォート内に建設された街区は基本的にはグリッド・パターンで、南北に伸びる3つの街路が設けられている。オランダによるゴールの支配は1世紀半におよんだが、1796年イギリスがゴールに進駐する。イギリスが街を破壊することはなく、オランダ人の築いた城塞都市が現在もほぼそのままに残されており、かつての総督府は企業の社屋に、兵舎は郵便局として保存されている。また、キリスト教教会もイスラム教のモスクとして利用されている。街の中心に位置するアマンガッラホテルは、1863年にスリランカ最初の西洋ホテルとして造られたニュー・オリエンタル・ホテルで、2004年に改修再オープンしたホテルである。ここには明治42年(1909)、二葉亭四迷も宿泊している。

 1988年に「ゴールの旧市街とその要塞化都市」として世界遺産に登録された。世界遺産ではあるが、そう観光化もされておらず、市民の生活空間が息衝く街区そのものであった。コロンボからゴールへの道のりは海岸線に沿った道路であったが、屋根や壁を失った廃屋が延々と続いていた。2004年のスマトラ地震で発生したインド洋大津波によって破壊された民家と聞かされた。スリランカでは実に数万人の死者があった。その全てが津波によるものであった。ゴールの街はインド洋に突出して建設された街であるにもかかわらず周囲を高い城壁によって囲まれていたため、インド洋大津波では1人の犠牲者も出さなかった。さらに城壁を越えて流れ込んだ海水も城塞都市建設による排水システムによって滞水することなく排水されたということである。世界遺産の城壁が市民を救ったのである。

 しかし、現在のスリランカは決して安全な国とは言えない。街にはカラシニコフ銃を抱えた兵士を多く見かける。すべての遺跡見学では入口で徹底的なボディチェックを受ける。これはスリランカの多数民族であるシンハラ人に対してタミル過激派LTTEはタミル・イーラム国の分離独立を求めて武装闘争が現在も続いているためである。私が帰国した直後にも数度にわたるテロや銃撃戦を伝える新聞報道があった。特にスリランカ北部はタミル人の居住地として民族紛争の激戦地となったところである。そこには日本の五稜郭とまったく同じ平面形態をもつ稜堡式の城塞都市ジャフナが存在している。残念ながらジャフナ・フォートにはスリランカ国軍の駐屯地となっており見学すらできない。スリランカとは光り輝く島という意味である。一日も早く民族紛争が終結し、ジャフナ・フォートが見学できる日の来ることを楽しみにしたい。