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世界遺産・遺跡案内

『アクロティリ遺跡を訪ねる』

穴沢咊光  会津若松市在住・医師/考古学者

発掘中の建物地階
発掘中の建物地階

 ギリシャのエーゲ海に浮かぶサントリーニ諸島は断崖上に並ぶ純白の家々や教会、紺碧の海・・・。まるで本当に絵葉書に出てくるような美しい島で、世界的観光地である。

 だが、この島は地中海地域でもっとも危険な火山のひとつで、18万年前の更新世に海上に出現して以来、たびたび大噴火を繰り返し、なかでも3600年前に起こった「ミノス噴火」は、エーゲ文明の最盛期に起こり、史上有数の規模のものであった。当時島群の中央にあった旧カメニ島から噴出した大火砕流は周辺を厚さ60mの堆積物下に埋め、カルデラ(火口)の陥没で東地中海に大津波を引き起こしたーと推定される。現在のサントリーニの主島テラ島とテレジア島はその際に残った大カルデラの縁で、旧カメニ島の残骸は、その後の噴火で生成したネア(新)カメニ島の北、実に深さ500mの深海底に沈んでしまった。この自然の大災害で埋没したアクロティリ遺跡は「エーゲ海のポンペイ」として有名だが、2010年覆屋根の崩壊事故で死者が出て閉鎖、2012年9月ようやく見学者に再公開され、筆者も10月に見学することができ、長年の宿望を達した。

二階まで残った町屋
二階まで残った町屋

 1939年、ギリシャの考古学者故マリナトス教授はクレタ島のミノス文明が崩壊した原因はこのミノス噴火がエーゲ海周辺にもたらした大災害ではないかーという仮説を提起し、それを証明するためにミノス噴火で埋没した同時代の遺跡の探索と調査に乗り出した。そしてテラ島の南端、アクロティリ村の南方の谷に浸食で露出した集落跡の発掘を始めると、たちまち予想を上回る大成果があった。エーゲ文明最盛期の有力な町がまるごと厚い火山灰の中にまるごと埋没保存されている大遺跡であることがわかったのだ。

 遺跡の発掘はきわめてむずかしい。何しろ厚さ7mの火山灰層の中に骨組み木造で石と泥の壁の高層建物がそっくり埋まっている。これを上から下に掘り進めていくのである。骨組みの木材はすでに朽ち果てており、それを同じ形のコンクリートで置換し、内部に残っている遺物を記録保存しつつ慎重に発掘していくのである。現場には巨大な覆屋根が架構され、露出した遺構が冬の雨で浸食されるのを防いでいる。

三脚机の石膏鋳型
三脚机の石膏鋳型

 アクロティリ遺跡は当時のテラ島の南東端にあった入り江(現在は消滅)に面した港町で、遺跡の総面積は推定20ヘクタール、現在発掘されつつあるのは、そのうちわずか30分の1度に過ぎない。遺跡は青銅器時代のキクラデス文化前期から居住が始まり、一時地震による被害を受けたが、キクラデス文化後期(ミノス文化後期1A)には繁栄の絶頂に達した。市街は2−3階、ところによって4階建て、建物の骨組みは木材、壁は石と木の枝を泥で塗り固め、その上を漆喰で上塗りしてある。クレタ島のように内部に採光用に吹き抜けのある場合はまれで、壁には大小の窓があり、窓枠は木材である。大きな建造物には、基礎や壁や角の部分には切石が使用されている。

 市街は不規則でところどころに小さな広場があり、狭い街路の中央には下水の排水溝が走っている。石造建物の一部はあるいは行政管理や祭祀建築?だったらしいが、発掘された多くの建物では地階は店舗や工房や倉庫、2−3階は住宅だったと思われる。地階にオリーヴや穀物を蔵用するための大きな甕(ピトス)やおびただしい陶器が置いてあり、また穀物を挽くための石臼や金属加工の炉がある。上階に登る階段は石造で、噴火前に起こった地震でV字形に折れ曲がった階段もあった。2−3階にあった住居でおどろくべきことは、ここに浴室と水洗トイレがあったことである。浴槽は西洋風呂状の陶器、青銅製の水入れがあり、同じ部屋の壁際に腰掛け式の便座が設けられ、排泄物は壁中に配置された陶製の排水管を通って街路下の排水溝に流される。家具には木製の彫刻で飾った円卓、ベッドがあり、また植物の枝を編んだ籠や容器があった。これらは建材の材木と同様に、灼熱状態の火山灰の堆積内で外から固められ、空洞化して発見され、内部に石膏を注入して取り上げられた。

カモシカの壁画
カモシカの壁画

 石と土の灰色の廃墟の現状からは想像もできないが、多くの家には美しく飾られた壁画で飾られていた。壁画はフレスコ技法で描かれており、多くは火砕流の衝撃で粉々になって散乱していたが、なかには壁の原位置に残っているものもあり、ギリシャのビザンチンフレスコ画の修復に豊かな経験を積んだ専門家が協力して取り上げ、現在アテネの考古学博物館の2階48号室やフィラのテラ先史文化博物館に一部が展示されている。これらの壁画は、港や町の景観、船団や戦士、美しく着飾った女性、漁夫、少年、カモシカやサルやツバメ、岩の間に咲く花々・・などきわめて色彩豊かでエーゲ文明世界の実像をことこまかに描写している。遺跡から出土した陶器も美しく洗練されている。

 この貴重な遺跡を後世のわれわれに残してくれたミノス噴火の年代は、はじめ紀元前1450年ごろと考えられていたが、現在では理化学年代にしたがい、前1640年ごろではないかーと考える学者が多いようである。噴火の数か月前に地震や前兆噴火があり、住民は事前に貴重品や動産をもって町を退去したらしく、発掘では小さな金製のカモシカ像が出土した以外、宝飾品のような貴重品の出土がなく、また人骨も発見されていない。

 遺跡の発見者マリナトス教授は1974年発掘現場で、卒中発作をおこして急逝し、その遺骸は遺志に従い、遺跡の一角に埋葬された。発掘は世界学界の注目下に現在なお進行中であるが、最近のギリシャの財政危機を反映して、遺跡の案内ガイドは民間ボランティアだそうで、ガイドブックもパンフの類も一切なく、非常に残念に思った。この遺跡のもつ重要性をもっと日本人にも認識してもらいたいものである。おそらく地中海世界でもっとも重要な埋蔵文化財のひとつであるからである。