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奄美に生き、描いた孤高の画家、田中一村

白鳥正夫  文化ジャーナリスト

「トラツグミのいる秋色図」 「アダンの木」

 田中一村(いっそん、1908−1977年)の生誕100年を記念した特別展「田中一村―原初へのまなざし」を奈良県立万葉文化館で見た。一村自体、近年まで知られていなかった画家だ。没後の1984年にNHK番組の日曜美術館で「黒潮の画譜 田中一村」が全国放送され反響を呼んだのだった。私はそれより遅れ、1995年に同じ番組で「奄美の杜・我が心に深く 田中一村の世界」が放映され、全国巡回展を見て知ったほどだ。

 はじめて作品を目にしたのは大阪の高島屋での巡回展だ。ソテツやアダン、ビロウやアカショウビンなど南の島特有の植生や花鳥、魚を大胆に描いた作品群に目を見張った。とりわけ「奄美の杜」と題された一連の作品は鮮烈だった。と同時にこんなトロピカルな花鳥画をモチーフにした日本画家の足跡に大いに興味をそそられた。

いま私が、この南の島へ来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。

 この文章は一村が知人に宛てた手紙だ。歓呼の声といえば、出征軍人を連想し、終戦後も南の島に潜んで暮らした横井庄一さんや小野田寛郎さんの生き方を想起する。晩年の19年間をひたすら奄美に身を置いた未知の人・一村もなぜかこの二人に通底する一徹さを思わずにいられない。

「ユリと岩上のアカヒゲ」

 一村の年譜によると、栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)に6人兄弟の長男として生まれている。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し、7歳の時に児童画展で天皇賞を受賞。本名は孝だが、彫刻家で稲村(とうそん)と号していた父は、画才を認め米邨(べいそん)という画号を与えている。

 1926年に東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に入学する。同期に東山魁夷や橋本明治もいた。しかし自らと父の発病により入学した年の6月に中退した。その後、南画を描いて一家の生計を立てる日々だったが、23歳の時に南画を離れて自らの心のおもむくままに描く日本画の道に進む。ところが支援者の支持を得られず、一時は工場で働くことに。

 1947年に川端龍子主宰の青龍社展に「白い花」が入選し、この時から一村と名乗る。翌年にも2点を出品した。「波」が入選するも、自信作の「秋晴れ」が落選し、青龍社からも離れる。

「菊図」

 日展や院展にも出品を試みるがいずれも落選し、次第に中央画壇に失望するようになった。1955年に九州や四国へのスケッチ旅行が刺激になり、1958年の奄美大島行きを決意する。紬工場で染色工として働きながら奄美の自然を描き続けたのだった。中央画壇とは無縁となり、孤独と闘いながら焦燥の日々を過ごし、69歳の生涯を奄美で閉じた。まさに一村は孤高の画家だった。

 一村作品は2004年にも巡回し、心斎橋の大丸ミュージアムでまとめて見ることができた。この間、2001年に鹿児島県奄美パーク内に田中一村記念美術館もオープンしており、再会となった代表作の「奄美の杜」シリーズや「熱帯魚三種」「素描・エビ」などに加え、新しい作品や資料なども展示されていて、より一層、一村に惹かれた。

「蓮」

 さて今回の展覧会に話を戻そう。開会前日のプレスレビューに訪ねた。生誕100年にあたる年の唯一の展覧会であり、久しぶりに関西での開催という待ちわびた機会だった。会場では最後の展示仕上げの最中で、幸いな事に企画の中心的な役割を担われた万葉文化館の総合プロデューサーであり、一村の研究者として知られる大矢鞆音さんにもお会いし話をうかがうことができた。

 この展覧会の特徴は、一般の目に触れることの少ない個人所蔵作品に焦点を絞っている点だ。存在すら知られておらず、今回の企画調査で新しく見つかった10点をはじめ、初公開作品31点などこれまでの巡回展で展示されなかった作品で構成されていた。宣伝用のチラシには「100年目の100点展」と謳われているが、実際には期間中に約150点が展示されるとのことだった。

 「アダンの木」(1972、3年)は、過去2回の展覧会でも見ている印象的な1点だ。アダンを手前に水平線の彼方を描いた海辺の構図だが、南の島で孤独に生きる一村の心象風景も垣間見る思いがした。作品を眺めていると、なんだか一村の悲しみの深さにまで胸が突き動かされてしまう。

「南天」

 初公開の「菊図」(1915年)は小色紙だが、米邨と号した7歳の作。その早熟な才能をうかがえる1点だ。「蓮」(1927年)や「南天」(1930年代)も初めての公開という。こうした米邨時代の南画作品も数多く出品されている。

 一村は身のまわりの自然を熱心に観察しスケッチしていたかが、よく分かる。いずれも巧みに描かれており、後援者の求めに応じて描いていたのではないかと思われた。一村は売るための南画に物足りなさを感じていたかも理解できた。

 大矢さんはNHK出版が出した『田中一村作品集』などを通じ、これまで22年間も調査し、約500点の作品を見てきたそうだ。その大矢さんが著わした『画家たちの夏』(2001年、講談社刊)次のような一文を記されている。

一村という作家の魅力は、単に作品だけでない、一人の人間としての生き方の中に、多くの人の心を惹きつけてやまないものがある。自分ではできなかった人生の決断、生き方を一村が果たしていることに共感を覚えるのであろう。一村に関わるとき、私をふくめて覚えず、深く、その人間性につかまってしまう。
「万葉文化館の展示会場」

 なお、展覧会にはこれまで一村の父として名前は知られていたものの、作品が紹介されたことのなかった田中稲村の木彫作品や、一村が父譲りの手技で自ら彫った細工物・根付なども展示されていた。その中に「木魚」(制作年不明)もあり興味深く見た。11月24日まで開催。