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美術館・博物館案内

「始皇帝と兵馬俑」展

会場:東京国立博物館 平成館
期間:2015年10月27日(火)〜2016年2月21日(日)

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始皇帝覚書
春秋・戦国時代の六国を征服して天下統一/封建制から郡県制へ/度量衡の単位を統一/車軌を同じうす/文字の書体を統一/泰山・封禅・巡狩(行幸)・馳道(幅69m、7mごと松)/匈奴を追い払い長城、南海郡をおき植民/皇帝/咸陽/阿房宮/驪山稜(70万人動員)/不老長寿・蓬莱山/徐福/焚書抗儒
陳勝呉広の乱・王侯将相あに種あらんや/項羽と劉邦

余話
始皇帝と匈奴
匈奴がはっきりとその姿をみせてくるのは、始皇帝が天下を統一する前後のことである。『史記』「匈奴列伝」によれば、統一から6年後のBC215年、始皇帝のもとに「秦を滅ぼす者は胡なり」と記された予言の書が提出された。そこで災いの根を絶つべく、始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)に10万(本記では30万)人の軍隊を与えて胡、すなわちこの段階では明らかに匈奴を攻撃させた。そして黄河より南の地をすべて占領し、黄河北岸の九原から都の咸陽のすぐ近くまで、直道(ちょくどう)と呼ばれる軍用道路を開通させた。その結果、匈奴は黄河の北方まで後退させられた。
その翌年に、秦は南方の百越(ひゃくえつ)に対して大軍を送り込んだ。天下統一後のしばしの安定期をへて、始皇帝はこの時期、大規模な対外遠征に打って出たのである。南北二正面作戦はそれなりに成功し、南北ともに領土を拡大することができた。しかし、始皇帝の命はもはや旦夕に迫っていた。BC210年に始皇帝が死ぬと、名将蒙恬は奸臣たちによって自殺に追い込まれ、内乱の勃発によって辺境防衛の防人たちもみな内地へ引き上げてしまった。その結果、匈奴はふたたび黄河を南にわたり、元の境界線で中国と対峙することになった。まさに元の木阿弥となったのである。

「始皇帝と兵馬俑」 チラシ1 「始皇帝と兵馬俑」 チラシ2