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『トンボの眼』ニュースレター

『トンボの眼』ニュースレター

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『トンボの眼』ニュースレター 2012年1月7日掲載

『トンボの眼で訪れる和歌山歴史紀行』

岩内一号墳
岩内一号墳

岩内一号墳
 7世紀に造営された横穴式石室を持つ方墳。銀線蛭巻太刀(ぎんせんひるまきたち)が副葬品として発見されたことや、漆塗の装飾のある木棺等であることから、被葬者は身分の高い人物であったと推測されています。その候補として藤白坂で処刑された悲劇の皇子、有間皇子が挙げられています。

三穂石室
三穂石室

三穂石室
 万葉集に登場する「三穂の石室」と考えられる海蝕の洞窟です。斉明・持統・文武・聖武の各天皇時代(658年〜724年)に4回にわたって牟婁温泉(むろのゆ=白浜温泉)への行幸が行われ、万葉集には三穂の石室関連の3首を含め計7首が詠われたようです。

道成寺
道成寺

道成寺
 天台宗の寺院で新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所です。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られています。

椒古墳
椒古墳

椒古墳
 東亜燃料工場内敷地に後円部のみが保存されています。銅鏡や金銅製の帯金具、鉄製の甲冑、直刀・槍などの副葬品が出土し、被葬者は近在の有力者か又は大陸渡来の有力者かとも想像されています。日本霊異記の記述等から長屋王の墳墓だと言い伝えられています。

有間皇子/藤白坂
有間皇子/藤白坂

藤白坂・藤白神社
 熊野三山に向かう都人たちが、熊野本地仏(藤白王子権現本堂)を祀る藤白神社を出発してさしかかる山道が藤白坂で、熊野古道の難所といわれています。有間皇子はこの坂で非業の死をとげたといわれ、坂の入口右手には皇子の墓と歌碑が、路傍には道標の丁石地蔵があります。古来、熊野路第一の美景といわれ和歌の浦はじめ歌枕の地を望む眺望絶佳の地です。

桜に包まれた紀三井寺
桜に包まれた紀三井寺

紀三井寺
 西国三十三箇所第2番札所で、本堂、大光明殿などの伽藍は山の中腹にあって、境内から和歌山市街を一望できます。山内に涌く三井水は「名水百選」に、関西一の早咲き桜は「日本さくら名所100選」に選ばれています。

紀伊風土記の丘資料館
紀伊風土記の丘資料館

紀伊風土記の丘・岩橋千塚古墳群
 国の特別史跡「岩橋千塚古墳群」の保全・研究・公開を主たる目的とし、約400基の古墳群、復元した竪穴式住居、移築した江戸時代の古民家集落、資料館および万葉植物園などで構成されています。岩橋千塚古墳群は前方後円墳が少なく大半は円墳・方墳で構成されていますが、6世紀後半頃に造営されたと考えられる一番大きな前方後円墳の天王塚古墳は紀伊国造の紀直(きのあたい)の古墳とみなされています。

日前・国懸神宮
日前・国懸神宮

日前・国懸神宮
 一つの境内に二つの神社があり、総称して日前宮とも呼ばれます。両社とも式内社、紀伊国一宮で、ご神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝・八咫鏡と同等のものとされ、準皇祖神の扱いをうけています。伊勢が大和への東の出口に対して、日前宮は西の出口にあるため伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれています。

秋月古墳
 和歌山の3世紀末〜4世紀末にかけての古墳は、他の近畿地方と比較して質量ともに極端に少なく、4世紀前半と目される秋月古墳が唯一と見られています。

竈山神社拝殿
竈山神社拝殿

竈山神社
 祭神は神武天皇の皇兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)。神武天皇の東征の途中、彦五瀬命は孔舎衙(くさか)坂で長髄彦(ながすねひこ)と戦った際、流れ矢にあたり負傷したため軍は進路を転じ、紀国雄水門(きのくにおのみなと)から竈山へ向かったが、この地で没したと伝えられています。

大谷古墳出土馬冑レプリカ/和歌山市立博物館
大谷古墳出土馬冑レプリカ/和歌山市立博物館

大谷古墳
 西に紀ノ川河口が見え、南側には「紀」一族の奥津城「岩橋千塚古墳群」のある岩橋丘陵が見えます。5世紀の終わりの築造とされ、日本では出土例が少ない馬冑をはじめ馬具・武具に加え大陸・半島からの影響を強く受けた豪華な副葬品の数々が出土しました。

紀伊国分寺跡
紀伊国分寺跡

紀伊国分寺跡
 紀の川平野の河岸段丘上にあり、右に塔、正面に金堂、金堂の左右斜め後方に鐘楼・経蔵を配し、金堂背後に講堂に取り付く回廊で囲まれる伽藍配置です。寺域・伽藍配置が明確で、南海道諸国との類似性がみられる貴重な国分寺遺跡です。周辺は整備されて、史跡紀伊国分寺跡歴史公園となり、歴史民俗資料館では出土遺物が見学できます。

粉河寺本堂
粉河寺本堂

粉河寺
 西国三十三箇所第三番札所。粉河寺縁起によれば宝亀元年(770年)のある日、猟師の大伴孔子古(くじこ)が山中で霊光を発する場所を見た。霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられている。

丹生都比売神社楼門
丹生都比売神社楼門

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
 紀ノ川より紀伊山地に入った標高450メートルの天野盆地にあり、式内社、紀伊国一宮です。祭神・丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神さまで、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め天野の地に鎮座されたといわれます。

隅田八幡宮
隅田八幡宮

隅田八幡宮
 古代の条里跡を見わたす台地上にあり、隅田一族の氏神として栄えました。所有の国宝・隅田八幡神社人物画像鏡は日本最古の金石文で有名。(東京国立博物館に寄託)

栄山寺八角堂
栄山寺八角堂

栄山寺
 藤原不比等の長子の武智麻呂が創建したと伝わり、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として栄え、また南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていました。「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されています。八角堂(国宝)、本尊;薬師如来坐像(重要文化財)、梵鐘(国宝)などがあります。

つじの山古墳
つじの山古墳

猫塚古墳・つじの山古墳
 この地域は方墳が多く、猫塚古墳からは蒙古鉢形眉付冑、金銅製冑、金銅製透彫銙帯金具、鍛工具類など大陸との関係が深い様々な遺物が出土しました。つじの山古墳は近内古墳群最後の首長墓と見られ(5世紀後半)、被葬者は紀氏の一員で大和と紀ノ川を仲立ちにした紀州・大陸との交流で活躍したと考えられます。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年12月18日掲載

『トンボの眼で訪れる新羅王都と新羅文化圏を訪ねる−慶州と慶尚北道』

慶州文化財研究所外観
慶州文化財研究所外観

慶州文化財研究所
 新羅文化圏における文化財発掘や学術調査を担当している研究所で、展示館では博物館などでは見学できない所蔵遺物を観覧することができます。

聖徳王陵亀趺
聖徳王陵亀趺

聖徳王陵
 国内政治を安定させ、唐との外交を活溌にし、三国統一以後の政治的に最も安定した新羅の全盛期をつくりあげた新羅33代聖徳王の陵墓です。唐の習慣が多く流れ込み、墓も同様で墓の前を文人、武人、獅子が守り、まわりを仏教の護国思想とも習合した十二支像が守っています。

四天王寺基壇址
四天王寺基壇址

四天王寺址
 三国統一後に仏法の力で唐の勢力を退散させることを目的で、30代文武王によって創建された寺です。双塔式伽藍配置(双塔一金堂式)で、現在は塔の礎石、亀趺、幢竿支柱が残っています。

善徳王陵
善徳王陵

善徳王陵
 芬皇寺や瞻星台、新羅最大の皇龍寺九層木塔を建て、新羅仏教建築の全盛期に新羅初の女王となった善徳女王の陵墓です。王陵は自然石を利用し、円墳の下に2段に保護石を積んだ以外は特に装飾がなく、他の王陵に比べ規模は小さなものです。

望徳寺址に残る幢竿支柱
望徳寺址に残る幢竿支柱

望徳寺址
 31代神文王によって創建された寺で、寺址には東西の木造塔や建物の礎石が残っています。典型的な統一新羅時代の双塔伽藍配置で、この他に南側の階段の跡がよく残っており、また西南には幢竿支柱が残っています。

金冠塚
 天馬塚のある慶州古墳群中の一基で22代智證王前後の王の墓と推測されています。長方形状の墓壙を掘り、その中央に木材を組み合わせた槨をつくり、木棺を安置し、さらに槨外に人頭大の河原石を積み、盛土した積石木槨墳です。副葬品は豪華で、被葬者は古墳名の由来となった金冠をかぶり、切子玉・小玉・勾玉をつらねた首飾、金製腰佩をつけ、腕・足には金銀製釧(くしろ)・指輪・金銅製飾履をつけていました。

国立大邱博物館
 慶尚北道地域の特色ある文化遺産を保存・展示する博物館で、旧石器時代から三国時代までの遺物を順に見学できます。また美術室では慶北地域の仏教文化、仏教彫刻品、仏像、仏教工芸品、高麗青磁や朝鮮白磁、粉青沙器などの優品が展示されています。

桐華寺大雄殿
桐華寺大雄殿

桐華寺
 霊山とされる八公山の主峰・毘盧峰を中心にして鷲が羽ばたくように東峰と西峰があり、谷間ごとに新羅時代から護国を願う仏事を続けてきた桐華寺、把渓寺、仏像・塔・磨崖仏が数多く散在しいぇいます。桐華寺は、新羅ソジ王の時代の寺で、興徳王の時代に再建されました。

松林寺五層磚塔
松林寺五層磚塔

松林寺
 統一新羅時代に建てられた高さ16.13メートルの五層磚塔仏塔があることで有名です。塼塔に使われた塼瓦は方形または長方形、摂氏800〜1000℃で焼かれたものといわれます。これを地上1m程度の花崗岩基壇上に五層に積み塔身を形成し、その上に高さ4.5mの青銅製相輪部が載っています。相輪部まで完全に残っているのは稀で貴重な文化財です。1959年の解体復元時に木製仏像と舍利容器(正倉院御物の「瑠璃坏」と酷似)などが発見され、国立大邱博物館に保管されています。

軍威三尊石窟三尊石仏
軍威三尊石窟三尊石仏

軍威三尊石窟
 慶州の石窟庵以前、統一新羅時代初期に自然の洞窟につくられた石窟寺院で700年頃に造営された三尊石仏が安置されています。

義城石塔
 統一新羅時代最初期の石塔で、磚塔様式が残されている面と、木造塔に由来する様式がそれぞれにみられ、いまだ完成していない新羅式石塔の姿をしています。基壇は新羅式の石塔で一般的な二重基壇にはならず芬皇寺石塔と同じく単層基壇で大きさも比較的広くなっています。屋蓋は下面が段状の持送り、屋蓋石の上面も磚塔のような持送り状に段がついています。

造塔洞五層塼塔
造塔洞五層塼塔

造塔洞磚塔
 現存する磚塔、模磚石塔の多くは統一新羅時代のもので、特に安東地方を中心に分布しており、安東・造塔洞磚塔は五層塼塔で塔身は高さ8.65m、一段目に小窓がありその両側には仁王像が浮彫にされた板石が填め込まれています。初層部分には花崗岩塊を使用しています。

鳳凰寺大雄殿
鳳凰寺大雄殿

鳳凰寺
 文武王12年(672年)に義湘大師の弟子・能仁大德が創建した寺で、義湘大師が浮石寺から紙で折った鳳凰を飛ばしたところ、その鳳凰が風に乗って『鳳停寺』のある場所に下りたことから鳳停寺と名付けられたと伝えられています。境内には高麗時代に建てられた極楽殿、朝鮮時代初期建造の大雄殿、高麗時代の三層石塔、朝鮮後期の華厳講堂などがあります。極楽殿は12世紀ごろに建築された韓国国内で最も古い木造建築物です。

河西マウル
河西マウル

河西マウル
 両班文化が最も栄えた朝鮮時代の両班(貴族)村で、2010年に歴史民俗村として慶州・良洞民俗村と共に世界文化遺産に登録されました。伝統的な風水の原則や儀礼、村行事などを現代までも守り続けています。また昔の家、東屋、寺院などの建物の多くがそのまま残っています。また、両班と庶民との関係をコミカルで風刺的に表現した仮面劇が伝承されています。

尚州博物館
 新羅時代の9州、高麗時代の8牧のうちの一つ、朝鮮時代には慶尚監営が置かれていた尚州の文化遺産を体系的に保存する博物館です。屋外には石造遺物や生態池、伝統模様が刻まれた時計塔などが設置されています。

洛山洞古墳群
 1987年に洛山洞の宅地造成にともなう緊急調査が行われ、古墳群は3世紀後半から5世紀前半にかけて築かれたもので、竪穴式石室、土墳墓、甕棺墓など多様で、横穴式石室墳が盛行する以前の墓制であることが明らかになりました。28号墳は、三国時代の末期、七世紀代のもので、石枕・足座を備えた埋葬法は新羅横穴式石室墳の影響であろうとみられています。これらの墓から出土した埋葬品には、新羅の金及び銀製の耳飾り、加耶時代(42-562)の土器が含まれており、この地方の支配勢力の集団墓地と推定されている。

三大楼閣の一つ嶺南楼
三大楼閣の一つ嶺南楼

嶺南楼
 晋州の矗石楼、平壌の浮碧楼とともに韓国三大楼閣の一つで朝鮮後期の代表的な楼閣です。両側に凌波閣と枕流閣の両翼があり、眼下には密陽江がゆったりと流れます。アラン閣、檀君を祭る天鎭宮、密城大君壇、密陽市立博物館があります。密陽は韓国3大アリラン・密陽アリランの発祥の地です。

表忠寺三層石塔
表忠寺三層石塔

表忠寺
 興徳王が建立したといわれる寺で、寺院内には、国に大事がおこると、碑石から汗、涙がでるといわれ表忠碑閣を初め、三層石塔や青銅含銀香壇(国宝75号)などの文化財を保管しています。壬申の乱の終了後、四溟大使が日本に行き3000人の捕虜を連れて帰ってきたことを称え、表忠寺という名前がつけられたといわれています。


写真レポート「古都鎌倉史跡めぐり」
『初冬の鎌倉・六国見山・鎌倉アルプスから瑞泉寺を歩く』

八雲神社境内の庚申塔 六国見山から富士山展望 建長寺が眼下に
1 八雲神社境内の庚申塔 2 六国見山から富士山展望 3 建長寺が眼下に
風化した磨崖仏 十王岩展望台から若宮通りを遠望 獅子舞
4 風化した磨崖仏 5 十王岩展望台から若宮通りを遠望 6 獅子舞
自然が造る水路を流れ落ちる 世界遺産登録に向けて公園化が進む永福寺跡 錦屏山瑞泉寺
7 自然が造る水路を流れ落ちる 8 世界遺産登録に向けて公園化が進む永福寺跡 9 錦屏山瑞泉寺

一口メモ

1 山ノ内の鎮守・八雲神社境内にある寛文5年(1665)銘のある鎌倉最大・最古の石造庚申塔(市文)

2 標高147,39メートル、鎌倉では大平山、鷲峰山につぐ高さ。展望台からは伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総の6ケ国をできることから六国見あるいは六国見峰とも呼ばれました。頂上近くには富士塚があり、富士山を信仰する富士講の人たちが盛り土して造ったものとか。見渡すと相模湾、鎌倉の森、富士山、丹沢・大山が・・・

3 建長寺の鎮守・半僧坊の裏手の展望台から眼下に建長寺、鎌倉の山々や町並み、相模湾などが一望できます。

4 洞穴状の祭壇であったと思われますが、今は壁がなくなり岩に彫像された主尊血盆地蔵(左)、如意輪館ゼノ観世音(中央)、閻魔大王(右)の像容は、風化による損傷が激しい。三体を浮き彫りにした磨崖仏で十王岩と呼ばれます。夜になると喚くといって里人は恐れたそうです。

5 眼下には鎌倉の町を2分するように若宮通りが海に向かって延びているのが見て取れます。十王岩は源頼朝が鎌倉幕府開設の際、都市計画の基点にしたと言われます。

6 17本の銀杏の大木、幹周りが3メートル以上のものが多い。総数2千本以上ある楓のうち100本あまりが20メートル以上もあり、それぞれ樹齢100年を超えています。天蓋のように銀杏の黄葉と楓の紅葉が彩る世界はまさに秋の醍醐味を堪能させてくれます。残念なことに10ばかりの遅れで楓の黄葉はすっかり落ち、また絨毯を敷き詰めたような光景すら楽しめなかったもののそれでも楓の紅葉残り堪能することが出来ました。

7 二階堂川の源流は獅子舞の谷と言われ、流れ出る清流は「歌の橋」あたりで本流「滑川」に合流します。

8 頼朝建立の三大寺院(鎌倉八幡宮寺、勝長寿院)の一つ。二階堂の地に平泉中尊寺の大長寿院を模して二階大堂を、伽藍配置は毛越寺を参考にして建立された。全体の建物は宇治平等院の鳳凰堂に似ていたという。この寺に頼朝・頼家・実朝、歴代将北条政子などが度々参詣し、境内において蹴鞠、花見、和歌会も催された。15世紀前半まで存在したといいますが、現在、世界遺産登録に向かって寺院跡の公園化整備が進んでいます。

9 山号の錦屏山は紅葉ケ谷を囲む三方の山が紅葉し、寺の背後が錦の屏風鵜を立てたようになることから名付けられました。鎌倉御所・初代足利基氏が夢想疎石に帰依し、代々鎌倉御所家の菩提寺として栄え、五山に次ぐ寺格の高い関東十刹の第1位に挙げられました。夢想疎石は作庭に注力し、本堂裏の岩庭とも称す書院庭園の起源とされ、国の名勝にしていされています。臨済宗円覚寺派。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年12月15日掲載

『トンボの眼で訪れる対馬国〜奴国(2)末盧国・伊都国・奴国』

末蘆国

復元された菜畑遺跡の水田
復元された菜畑遺跡の水田

菜畑遺跡
 福岡市博多区にある板付遺跡と共に日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡です。弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘されました。復元された竪穴式住居や水田に併設して魏志倭人伝に出てくる末盧国に因む末盧館があり、この遺跡から出土した炭化米や石包丁、鍬、鎌などの農業用具ほか発掘に関連した資料が展示されています。また銅鏡、巴形銅器、有鉤銅釧、広形銅矛、ガラス製小玉などが出土し「末蘆国」の王墓と考えられる桜馬場遺跡関連資料も展示されています。

支石墓や甕棺墓群を展示・新町展示館
支石墓や甕棺墓群を展示・新町展示館

新町遺跡
 弥生時代早期・前期の支石墓を含む甕棺墓群が57基、稲作が開始された時期の人骨が出土した歴史的に大変貴重な遺構です。併設の展示館では甕棺墓群の復元、出土した貨幣なども展示されています。

伊都国

平原遺跡出土の内行花文鏡
平原遺跡出土の内行花文鏡

伊都国歴史博物館
 伊都国の王都である三雲井原遺跡のすぐそばに立地、糸島地方、前原市内からの出土遺物をはじめ、伊都国の王墓である三雲南小路遺跡や日本最大の銅鏡など「伊都国」の時代の考古資料を中心に展示しています。特に展示されている平原王墓、三雲南小路王墓の50枚以上の銅鏡をはじめとする出土品は王がいたことを証明する貴重な資料です。

平原遺跡1号墓
平原遺跡1号墓

三雲・井原遺跡・平原遺跡
 弥生時代から古墳時代にかけての伊都国の王都であったと推定され、伊都国の王の墓とされる遺跡が三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、平原遺跡です。平原遺跡からは破砕された日本最大の内行花文鏡や方格規矩四神鏡など39面の鏡が出土しました。

奴国

豪華な副葬品が目を引く甕棺墓
豪華な副葬品が目を引く甕棺墓

須玖岡本遺跡
 春日市域西部に広がる春日丘陵の北部、須玖岡本地区は、弥生時代中期の甕棺墓や土壙墓・木棺墓などの密集地帯で、「漢委奴国王」の金印を贈られた奴国の中心地と比定されています。王墓の上石といわれる大石の下の甕棺墓からは30面の前漢鏡、銅剣2本、銅矛5本、銅戈1本、ガラス璧(へき)などが出土し、「奴国の丘歴史資料館」に展示されています。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年12月13日掲載

『トンボの眼で訪れる対馬国〜奴国(1)対馬国・一支国』

韓国まで50キロ足らず・・・

対馬国

韓国まで50キロ足らず・・・

広型銅矛
広型銅矛

峰町歴史民俗資料館
 津軽地方の骨製品や沖縄の貝、朝鮮半島からの品々、鹿笛と呼ばれる鹿をおびき寄せる狩猟具など「魏志倭人伝」の記述を裏付けるような遠隔地との交易を物語る遺物が多く展示されています。

塔の首遺跡の箱式石棺
塔の首遺跡の箱式石棺

塔の首遺跡
 比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い岬上にある弥生後期墓地で、箱式石室4基からなります。銅釧、各種玉類、8000個に及ぶガラス小玉、広形銅矛など多数の遺物が棺の内外から発見されました。

大陸との交流を示す遺物が出土
大陸との交流を示す遺物が出土

ガヤノキ遺跡
 三根川河口近くの沖積地に突き出た小丘陵上先端部に位置し、箱式石棺と積石塚からなり、出土遺物は金属器を中心として多彩で、弥生時代から古墳時代にかけての対馬の墳墓の特徴をよく備えています。

チゴノハナ遺跡
 三根湾に突き出した岬の先端部に位置し、長崎県、九州大学、峰町教育委員会によって調査され、2基の箱式石棺と1基の土坑墓が確認されました。1号石棺の側で長さ43cmの完形の磨製石剣が発見されています。

海幸彦・山幸彦の神話の神社
海幸彦・山幸彦の神話の神社

和多都美神社
 浅茅湾入江にある海宮で海幸彦・山幸彦の神話で有名な彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祭っています。海から本殿へ5つの鳥居が連なり、満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させます。

長崎崎県立歴史民俗資料館
 大陸との交流を示す考古資料をはじめ、対馬藩宗家文庫史料など中世から近世にかけての古文書や古記録など貴重な歴史的文化遺産が数多く保管されています。

海に最も近く見晴がよい根曽古墳第四号
海に最も近く見晴がよい根曽古墳第四号

根曽古墳群
 対馬の古代豪族「対馬県直」一族の本拠地と考えられている。半島状に張り出した丘陵地帯に5世紀から6世紀頃の古墳群で前方後円墳3基と円墳2基が確認されている。

墳積石が広く散乱し、形状は不明で、石室しか残っていない。海岸への見晴しは一番よい。

一支国の王都・原ノ辻遺跡の上空写真

一支国

一支国の王都・原ノ辻遺跡の上空写真

巨石を用いた横穴石室
巨石を用いた横穴石室

双六古墳
 壱岐島のほぼ中央、勝本町立石東触にある全長91メートル、前方部の高さ5m、後円部の高さ10.6m、長崎県下最大の前方後円墳です。石室は、巨石を用いた横穴式石室で玄室・前室・羨道からなる構造で、全長は10.12メートル、玄室は高さが4.28メートルあります。前室が5.6メートルと長く、壱岐の横穴式石室の大きな特色となっています。

掛木古墳
 6世紀末〜7世紀前半築造の円墳で、墳丘の直径は約30m。県下で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳です。

鬼の窟古墳
 双六古墳から北東1キロメートルのところにあり、巨石を用いた長大な横穴式石室をもっています。

復元建物で古代が甦る
復元建物で古代が甦る

原の辻遺跡
 壱岐島東部・芦辺町および石田町にかけて存在する弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡です。住居跡や墓地が発掘され、貨泉や大量の鉄器等が出土。長崎県文化財センターを中心に調査が継続され、現在も調査は継続されています。平成5年の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出され、また、壕の外西北では船着き場の跡も発掘されました。環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートル、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものです。平成7年に一支国の国都であると特定され、建物の復元や史跡整備が進んでいます。

人面石
人面石

壱岐市立一支国博物館
 「魏志倭人伝」の世界の再現をテーマとし、原の辻遺跡出土物の中国鏡、戦国式銅剣、貸泉などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器などを展示した博物館です。原の辻遺跡を眼下に見晴らす丘陵上に立つ、モダンで斬新なデザイン、展示にも工夫がこらされた博物館です。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年11月28日掲載

『トンボの眼で訪れる「熊本・福岡の装飾古墳」』

■ 1日目
羽田田空港(08:30)→日本航空JAL313→(10:30)福岡空港=熊本県立装飾古墳館(移築復元)=山鹿市立博物館・チブサン古墳・オブサン古墳=鍋田横穴群=弁慶ケ穴古墳(熊本県山鹿市)=菊池温泉
■ 2日目
菊池温泉=袈裟尾高塚古墳=鞠智城(山鹿市)=人吉城跡(人吉市)=青井阿蘇神社=大村横穴群・京ケ峰横穴群=人吉温泉
■ 3日目
人吉温泉=大坊古墳・永安寺東・西古墳(玉名市)=肥後古代の森・清原古墳群・江田船山古墳・塚坊主古墳・虚空蔵古墳(和水市)=日の岡古墳・月岡古墳・屋形古墳群(珍敷塚・鳥船塚古墳)(福岡県うきは市)=福岡空港(19:25)→日本航空JAL338→(20:45)羽田空港

ポイント
装飾を持つ古墳を一般に装飾古墳と呼び、全国に約600基の古墳が知られているが、熊本県内にはそのうち3割の187基の装飾古墳がある。その代表的な装飾古墳と崖面に浮き彫りが施された横穴墓群、福岡県の代表的な日の岡古墳や珍敷塚古墳といった装飾古墳を訪ねる。菊池、人吉といった風情ある温泉が疲れを癒してくれるのも楽しみです。

● 熊本県立装飾古墳館
 熊本県内の主要な装飾古墳のうち12基を選び、これらの精密なレプリカを作り、出土した副葬品などとともに展示しています。保存のため閉鎖されている古墳もあり必見です。

● 山鹿市立博物館
 菊池川流域より出土した考古資料を中心に展示。とくに、弥生時代の国指定史跡方保田東原遺跡と古墳時代の装飾古墳などから出土した遺物を主体として展示。全国に唯一の石包丁形鉄器や、30数例しかない巴形銅器など大変貴重な資料がみどころです。

● オブサン古墳
 奥室屍床を画する仕切り石に赤彩の連続三角文。奥壁にもかろうじて赤彩の小型の靭もしくは盾。現在は痕跡程度になり肉眼では判読できない。奥室には装飾豊かな壁画が描かれていた可能性が高い。

乳房に似た文様のチブサン古墳
乳房に似た文様のチブサン古墳

● チブサン古墳
 古墳時代6世紀頃に造られたもの。石室内の石屋形(いしやかた)内壁と屋根の軒部前面に装飾文が描かれている。内側石の上段に白の円文7個、下段に冠をつけ両手、両足を広げた人物像とその右に三角文を白色で、その他は赤色で塗っている。正面の側石に三角文・菱形文を主体に正面中央に円文を描き、赤・白・青の三色で塗り分けてある。特に、中央に描かれている装飾の紋様が女性の乳房に似ていることから、「乳の神様」(別称)として現在に至るまで崇められている。

人物、弓、盾、馬、靫などが浮き彫りされた鍋田横穴群27号横穴慕
人物、弓、盾、馬、靫などが浮き彫りされた
鍋田横穴群27号横穴慕

● 鍋田横穴群
 古墳時代後期に作られた群集墓。鍋田には阿蘇大噴火でできた溶岩(阿蘇凝結熔解岩)が露頭している場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って墓とした。鍋田第27号横穴慕の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(ゆぎ;矢の入れ物)などが浮き彫りされている。

舟葬思想を表現する弁慶ケ穴古墳の壁画
舟葬思想を表現する弁慶ケ穴古墳の壁画

● 弁慶ケ穴古墳
 古墳時代後期の装飾古墳。巨大な凝灰岩を用いた前室・後室の複数の横穴式石室 を設けている。石室入口に人物の彫刻があるほか、前室右壁には赤色でゴンドラ型の船を上下に二艘描き、そのひとつには馬を、もうひとつには荷物とその上に鳥が乗っている様子を描いている。この荷物を柩と見ることにより、舟葬思想(死後の世界を海の彼方にあると考え、遺体を舟に乗せて葬るという考え)を裏付けるものとして注目されている。他にも大小5頭の馬と鞭らしき物を持った人物像、同心円、三角文などを主に赤色の彩色を用いて描く。彩色の褪色が著しいため見学は厳しく制限されているが、熊本県立装飾古墳館に実物大の模型が展示されている。

菊池で唯一の装飾古墳、袈裟尾高塚古墳
菊池で唯一の装飾古墳、袈裟尾高塚古墳

● 袈裟尾高塚古墳
 墳丘は径24.5m、高さ4.7mの円墳であり、菊池で唯一の装飾古墳。内部は南南西の方向に、羨門を持つ横穴式石室で、前室と玄室に分かれており、全長は約7.22mとなっている。凝灰岩の巨石を壁石とし、その上に切り石を積み上げて天井石を乗せている。玄室の左右に屍床、奥に石屋形がある。その奥壁に、線刻で「靫(ゆぎ)」を二つと三角文を配した装飾がある。また玄門や側壁に赤・白色の顔料による彩色が残存する部分が認められる。玄門のまぐさ石の上面にも靫の浮彫りが発見された。副葬品として翡翠勾玉、硝子玉・金環などの装身具や刀子・鉄鏃・轡や須恵器が出土している。

八角形鼓楼などの建物が復元された歴史公園・鞠智城
八角形鼓楼などの建物が復元された
歴史公園・鞠智城

● 鞠智城
 663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和政権が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた山城の一つで、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地であった。周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもち、発掘調査により、八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見され八角形鼓楼、米倉、兵舎などが復元され歴史公園となっている。

崖面800mに渡って2群、27基の横穴墓がある大村横穴群
崖面800mに渡って2群、27基の横穴墓がある
大村横穴群

● 大村横穴群
 球磨川の北にある村山台地の南側崖面にある。崖面の約800mの間に東西2群に分かれて27基の横穴がある。古墳時代後期のものでこの中の8基の横穴の外面には動物、武器、武具、幾何学文様(円文・三角門等)の装飾がある。

精巧な靫などの武具の浮き彫りが残る京ケ峰横穴群
精巧な靫などの武具の浮き彫りが残る
京ケ峰横穴群

● 京ケ峰横穴群
 球磨川に臨む阿蘇熔岩の断崖に地点を異にして5基が開口する。第一号横穴の右外壁には大小二個の精巧な靫を、第2号横穴の右外壁には大小二個の盾と剣の浮き彫りが残っている。を浮...横穴5。1号・2号横穴の外壁に、浮彫りによる装飾を施し、彩色されている。

連続三角文、円文が装飾された大坊古墳
連続三角文、円文が装飾された大坊古墳

● 大坊古墳
 菊池川左岸の玉名平野をのぞむ丘陵の先端に位置する古墳時代後期の前方後円墳。後円部には前室と奥室とからなる複室と呼ばれる構造の横穴式石室を持つ。装飾はこの石室の第一、第二羨門の両支柱と奥室の石屋形と呼ばれる大型の石棺状のものに朱と群青を使って施されており、特に石屋形には5段に並べられた多数の連続三角文と、その中に数個の円文を描く。出土遺物は金製の耳飾りや真珠、玉類などの装身具、大刀や鉄鏃などの鉄器、鉄製の馬具類、土器など数百点にものぼる。一部が玉名市立歴史博物館に展示してある。

二つの円墳が並ぶ永安寺東・西古墳
二つの円墳が並ぶ永安寺東・西古墳

● 永安寺東・西古墳
 永安寺東古墳は、菊池川右岸の玉名平野を南に望む丘陵裾部に位置し、石室構造から6世紀中頃のもので、同じ丘陵上にある大坊古墳に後続する円墳と考えられる。内部主体は、羨道・前室・玄室からなる横穴式石室で、玄室は長さ2.6m、幅2.4m、高さが2.7mあり、奥壁に沿って石屋形が設けられてる。前室は現存部分の長さ約1.6m、幅2.3m、高さが1.6mあり、左右側壁と玄門の前面に装飾模様が施されている。永安寺西古墳は、東古墳の西約60mの同じ丘陵上に位置し、墳丘は直径約12m、高さ約4mの古墳時代後期の円墳。古墳で東古墳に後続するものと考えらる。内部主体は複室の横穴式石室で、玄室は長さ3.4m、幅2.8m、高さが3mあり、装飾模様は奥壁と両側壁の巨石にみられ、横線で区画した中に線刻した円文が上下3段並び、奥壁に15個、右側壁に16個、左側壁に12個みられます。

江田船山古墳
銀象嵌銘をもつ大刀が出土した江田船山古墳

● 江田船山古墳
 清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である。

江田船山古墳横口式家形石棺
江田船山古墳横口式家形石棺

 古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳[4]に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527〜8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられている。

日岡古墳
櫂を持つ人物、靫や蕨手文・ヒキガエル、
鳥などを乗せた船や太陽をあらわすような
同心円文が描かれた日の岡古墳

● 日の岡古墳・月岡古墳
 日の岡古墳は若宮八幡宮境内にある全長80メートルの前方後円墳。頂上は削平されており、南西のくびれ部に開く単室横穴式石室がある。1887年(明治20)に発掘され羨門(せんもん)を閉鎖した。現在は天井部から出入している。石室は胴張りを有し、通路まで加えて全長5.1メートル。玄室の長さ4メートル、同最大幅2.7メートルを測る。

社殿下に保管されている月岡古墳出土の長持形石棺
社殿下に保管されている月岡古墳出土の
長持形石棺

 安山岩割石積みの壁面から天井にかけて同心円文と三角文を主体とする彩色壁画が描かれており、赤、緑、白の三色が使用されている。奥壁には、三色による同心円文6個が上下二段に配置される。左右壁には、盾(たて)、靫(ゆき)、刀、獣、魚などがみられる。6世紀前半から中ごろに相当する、筑後地方の代表的装飾古墳である。

月岡古墳出土の甲冑
月岡古墳出土の甲冑

 1887年、坪井正五郎(つぼいしょうごろう)によって紹介された。同じ境内にある月岡古墳も全長95mの前方後円墳で後円部から江戸時代に長持形石棺が出土、現在、お宮の建物の床下にほかんされており見学することができる。また盗掘されずに出土した金銅製武具や鉄器、鏡なども展示されている。

珍敷塚古墳の装飾壁画
珍敷塚古墳の装飾壁画

● 珍敷塚古墳
 墳丘は残っておらず、奥壁の絵は、赤と青の顔料を使い、岩の地肌を利用して3色の色合いで構成されている。まず、太い線を横に4段描き、その上に弓矢が入った靫を3個、大きく中央に配置し、左と中央の靫の間には大きなワラビ手文様が描かれている。靫の左側上には同心円文、その下にはゴンドラ形の船があり、右側が船首で舳先には鳥が止まっており、帆のようなものも見える。冠をかぶった人物が櫂を持っており、靫の右側上には盾もしくは弓を持った人物が立っている。その下には月に住む動物と言われる2匹の蟾蜍(センジョ ヒキガエルの意)が描かれている。この古墳の壁画には線だけでなく、点を多用していることも特徴のひとつである。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年11月28日掲載

『装飾古墳とは』

チブサン古墳
チブサン古墳(熊本県山鹿市)

 古墳内部の石室や石棺、あるいは横穴墓の壁面に彩色や浮彫、線刻を施したものを装飾古墳と呼ぶれています。こうした装飾を施す古墳は4世紀から出現し、横穴式石室が盛んに造られた5世紀から7世紀にかけて、九州北部を中心にひろがりました。装飾古墳の定義が、研究者によって違うため、正確な数を集計するのは難しいのですが、平成19年5月現在、国内の装飾古墳総数は657基を数え、九州では367基と全国の半数以上が集中しています(熊本県立装飾古墳館による)。また熊本県内の装飾古墳は196基と全国で最も多く、特に菊池川流域には装飾古墳が数多く集中し、117基が確認されています。全国第2位の数を誇る福岡県内の装飾古墳は71基を数えることから、菊池川流域にいかに集中しているかが判ります。

 初期の装飾古墳は石棺の外側や内側に、円文などの装飾を施していました。やがて、正方形の形をした石室の四方に石障(せきしょう)と呼ばれる板石を組み、そこに文様を刻み、色を塗るようになります。この装飾古墳は「石障系」と呼ばれ、熊本の装飾古墳の特長のひとつとして分類されています。

 そして、この石障に代わって、石屋形(いしやかた)と呼ばれる、開かれた棺が採用され始めると、石屋形に線刻を施したり、彩色で文様が描かれるようになり、次第に石室の壁全体に装飾が広がるようになります。これらの装飾古墳は「壁画系」と呼ばれ、菊池川流域と福岡県を中心に全国で見られるようになります。

竹原古墳
竹原古墳(福岡県若宮市)

 また、石棺の蓋に、浮彫や線刻と彩色を施すものも見られます。これらは「石棺系」と呼ばれ、直弧文(ちょっこもん)や円文など様々装飾が施されています。

 更に、阿蘇溶結凝灰岩など、軟らかい岩肌に穴を穿つ横穴墓(おうけつぼ)の内外にも、線刻や彩色などの装飾が施されます。この装飾古墳は「横穴系」と呼ばれ、熊本県内の実に6割がこの横穴系の装飾古墳で占められます。

 熊本県内、特に菊池流域に装飾古墳が集中する理由のひとつは、約9万年の阿蘇山の噴火時に火山性噴出物が堆積してできた阿蘇溶結凝灰岩(Aso-4)が豊富にあることと推察されます。

 阿蘇溶結凝灰岩には、様々な硬さの石材があり、装飾古墳には程よい硬さの石材を選び、使用されたことが判っています。また、石材表面は多穴質であることから、塗られた顔料が染め込み、1500年経過した現在も鮮やかな彩色が残っていると考えられます。

(熊本県装飾古墳館常設展示図録「黄泉の国の彩り」より)


『トンボの眼』ニュースレター 2012年11月26日掲載

『武家の古都・鎌倉』 歴史散歩−源頼朝の鎌倉入り−

寿福寺
頼朝夫人政子が栄西禅師を開山として建てた寿福寺。
この境内あたりに源家の館があった。

 治承4年(1180)8月17日、源頼朝は平治の乱以来20年に及ぶ雌伏を破って伊豆で"打倒平氏"の旗を挙げた。挙兵後の緒戦に勝利するものの、23日、相模国、石橋山の戦い(小田原市石橋)で大敗、危難の末、真鶴の岩浦(真鶴町)から安房(館山市)に遁れた。そして房総の地で勢力を盛り返す。そして千葉介常胤の「いまの御居所は、さしたる要害の地にあらず。また由縁の地にもあらず。なれば速やかに相模国鎌倉を御居所となさるべし」という献策を採用する。房総半島西岸を北上し、隅田川を渡り、武蔵国滝野川の松橋(東京都北区)に布陣、さらに武蔵国府中(府中市)の六所明神(大国魂神社)に参詣、10月6日に父祖由来の地、鎌倉に入った。途中で参軍した畠山重忠を先陣として、すでに3万余騎に膨れ上がっていたという。

 三方が山で南側だけが海という地形は、まさに自然の「要害の地」であった。また源頼義(よりよし)以来、源家の代々が東国で策源地としたのが鎌倉だった。頼義−義家−(義忠)−(為義)−義朝(よしとも)−義平とすでに数代に及ぶ。源家「由縁の地」であることに間違いはない。頼朝にとって、父祖由縁の地・鎌倉に入ることは、伊豆流入20年間の望みでもあったことであろう。しかし長年の夢が叶った今、鎌倉には頼朝の居館はなかった。鎌倉入部のその日頼朝は、ごく普通の民家で一夜をすごしたという。

寿福寺境内の説明版
寿福寺境内の説明版。

 翌7日朝早く、頼朝はまず元八幡宮を遥かから拝んだ(鎌倉市材木座にある元八幡、由比若宮)。元八幡は康平6年(1063)源頼義が安倍貞任を征討した時、鎌倉に立ち寄り、京都の岩清水八幡宮を勧請、さらに永保元年(1081)、源義家が後三年の役で奥州下向の際、参拝、社殿を修復、源氏の氏神として神拝したという。頼朝がまずこれを遥拝したというのもうなずける。そして亀ガ谷の源家の館(寿福寺付近)に赴いた。父祖以来のこの地に自館を建てるつもりだったのである。しかし頼朝が構想していた自館を建てるには、敷地があまりにも狭かった。さらにその地には岡崎義実(よしざね)が亡君義朝のために建てた仏堂があった。父のために建てられた堂を破却することはできなかった。やがて、頼朝御所の地が決まった。現在の清泉小学校の敷地が、御所東北隅の四分の一になる地域である。頼朝の居館は新築ではなかった。山内にあった知家事(ちけじ)兼道という人物の館が取り壊されて移築されることになり10月9日工事が始まった。そして11日、走湯山権現(そうとうさんごんげん 熱海市伊豆山権現)の僧・専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、かねてからの頼朝の招きで鎌倉に参着した。翌12日、大事が挙行された。元八幡の北山小林郷への移転である。元八幡を本社とするか移転して新しい社を建てるか神籤を引いた結果である。こうして建立されたのが鶴岡八幡宮である。松の柱に茅葺きの屋根といったきわめて簡単、かつ素朴なものである。この北山小林郷こそが現在の鶴岡八幡宮の所在地(鎌倉市雪ノ下)である。ただしこの時の八幡宮は山の上ではなく下の平地に造られた。初代の別当に任じられたのは専光坊良暹であった。この頃から鎌倉ではここかしこで槌音がひびくようになり、鎌倉に屋敷地を与えられた御家人らが舘を新築し始めたのである。とにかく頼朝は多忙であった。平維盛(これもり)率いる平氏勢が、すでに駿河国にまで迫っていた。10月18日富士川の合戦で平氏勢を撃退すると、27日には常陸国の佐竹氏討伐のため出陣、凱旋をはたしたのは11月17日であった。

 12月12日、ついに竣工した御所に頼朝が入居することになった。参集した御家人の人数は311人にのぼった。ここで頼朝自身による鎌倉開幕宣言が行われた。日本で最初の武家政権の成立を祝う儀式が、堂々と執り行われたのである。完工なった御所は約200年も昔の古材で造られたものだった。質実剛健の鎌倉武士にはそれでも充分だったのである。

現在の鎌倉八幡宮
現在の鎌倉八幡宮。鎌倉入り直後の
元八幡からの遷宮では平地に建てられた。

 12月12日の幕府成立を『吾妻鏡』には

 また御家人等、同じく宿館を構う。それより以降、東国みな、その道あるを見て、頼朝を推して鎌倉殿となす。
 と記す。

 栄華をきわめた太政入道平清盛が都で他界したのはその翌年である。源氏の盛運、平家の衰退が明らかになりつつあった頃の話である。

参考 日本景観学会鎌倉大会『鎌倉の景観と世界遺産への道』レジメ「中世鎌倉の風景と精神」浅見和彦<成蹊大学教授>)、浅見和彦 著『日本古典文学・旅百景』、『もっと行きたい鎌倉歴史散歩』 奥富敬之 著 新人物往来社


写真レポート「古都鎌倉史跡めぐり
北鎌倉から扇ガ谷に薄紅葉の禅刹を訪ね、樹林を歩く」

JR北鎌倉駅(10:00)…円覚寺浄智寺葛原ケ岡ハイキングコース葛原岡神社・日野俊基墓・昼食…源氏山公園化粧坂…扇ガ谷…海蔵寺・客殿・庭園特別拝観寿福寺…(15:00)JR鎌倉駅

円覚寺境内の紅葉 姫蔦蕎麦(ヒメツタ蕎麦)/円覚寺境内 浄智寺の紅葉
円覚寺境内の紅葉 姫蔦蕎麦(ヒメツタ蕎麦)/円覚寺境内 浄智寺の紅葉
浄智寺の紅葉 浄智寺から葛原ケ岡で見かけた薄紅葉と竹林 浄智寺から葛原ケ岡での薄紅葉
浄智寺の紅葉 浄智寺から葛原ケ岡で見かけた薄紅葉と竹林 浄智寺から葛原ケ岡での薄紅葉
源氏山公園の紅葉 心字池/海蔵寺 寿福寺参道
源氏山公園の紅葉 心字池/海蔵寺 寿福寺参道

写真レポート「古都鎌倉史跡めぐり
秋深まる山ノ内・台峯から山崎・天神山をめぐる」

JR北鎌倉駅(10:00)…円覚寺…光照寺稲荷神社台峯…富士山眺望…谷戸の池北大路魯山人旧居…庚申供養塔…鎌倉中央公園・昼食…昌清院天神山・石段…北野神社塩釜神社…(14:30)JR大船駅

山門欄間に掲げられていたキリシタン伝承が残るクルス紋/光照寺 鎌倉三大緑地・台峯から富士山遠望 谷戸の池/台峯緑地
山門欄間に掲げられていたキリシタン伝承が残るクルス紋/光照寺 鎌倉三大緑地・台峯から富士山遠望 谷戸の池/台峯緑地
赤く熟れたカラス瓜が秋の深まりを感じさせる/台峯緑地 窯をかまえ料理と器で客人をもてなした/魯山人旧居 円覚寺塔頭如意庵の末寺・昌清院
赤く熟れたカラス瓜が秋の深まりを感じさせる/台峯緑地 窯をかまえ料理と器で客人をもてなした/魯山人旧居 円覚寺塔頭如意庵の末寺・昌清院
秘仏・銅造十一面観音菩薩立像/昌清院 廃寺となった宝積寺の本尊であった 金剛界四仏の尊像が4面に浮き彫りされた宝きょう印塔/北野神社
秘仏・銅造十一面観音菩薩立像/昌清院 廃寺となった宝積寺の本尊であった 金剛界四仏の尊像が4面に浮き彫りされた宝きょう印塔/北野神社

写真レポート
「特別公開・海蔵寺の庭園」

海蔵寺山門 底脱けの井 説明板
海蔵寺山門 底脱けの井 説明板
庭先 薬師如来/仏殿 十六の井
庭先 薬師如来/仏殿 十六の井
海蔵寺の庭園 海蔵寺の庭園 海蔵寺の庭園

一口メモ
海蔵寺 扇谷山海蔵禅寺

 古都鎌倉の扇ケ谷の北、風光明媚な渓間にたたずむ臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州大守藤原仲能が本願主となり、七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおりに烏有に帰した後、応永元年(1394)4月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏貞が再建したのが海蔵寺である。氏貞は源翁禅師(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属し今日に至っている。

庭園…「心字池」を中心に何の変哲もない石が、それぞれの"心"という生命を与えられて雪見燈篭などと共に池辺にたたずみ、樹間にはひっそりと石の五重塔も配されている。松竹梅や紅葉の機、つつじなど、さまざまな樹木、草花が四季おりおりの風情をかもし出し、池水は四季を通じて枯渇することなく、自然の湧水がこれを満たしてくれる。いわば、禅の不動心を表象しているようでもある。月見台から望む風景は、まさに一幅の絵画であり、泉石は観る者の心を養ってくれる。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年11月25日掲載

『武家の古都・鎌倉』 歴史散歩−化粧坂1−

 鎌倉時代の日記『とはずがたり』の作者・後深草院二条は、御所から追放されたことを機に出家、32歳の若さで諸国遍歴の旅に出る。尼となった二条が最初に向かったのは関東、東国であった。正応2年(1289)の春2月に京を出発、逢坂の関、美濃赤坂、熱田神宮、鳴海潟、清見が関、宇津山峠、三島大社を経て、約1ケ月後に鎌倉に到着する。

明くれば鎌倉に入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧の振舞、都に違わず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)という山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山にて京を見るには引き違へて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あな物わびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。

「とはずがたり」

化粧坂  極楽寺の僧侶たちの振舞が都と少しも変わらないのでまず、一安心、化粧坂へとかかる。坂道を登り切ると鎌倉の町が見える。初めて見る関東の都の姿である。しかし、その光景は、京の都の風景とあまりに違う。町は階段状で谷(やつ)の奥まで入り込んでいる。京・東山のから見られるような条房によって区画された都の姿を二条は思い描いていたのだろう。ところが、まるで"袋の中に物を詰め込んだような"これが二条の東国の都、鎌倉の第一印象であったのである。

 初めて見た鎌倉の姿に二条はかなり驚き、落胆もしたようだが「階などのやうに袋の中に物を入れたるやう」と評した彼女の直感力は鋭い。鎌倉の地形、町づくりの特徴を一瞬のうちに見抜いているのである。平坦地の少ない鎌倉においては、平らな盆地に立地した平安京とはわけが違う。三方を山に囲まれ、前に海を構える鎌倉は平安京や平城京とは地形の面で大きく違う。こうした地形は居住するには不便この上ないが、防衛という面からいえば大きな力を発揮する。同じ古都としていわれることも多いけれど、京都や奈良と違って鎌倉は軍事都市として立地し、設計されていたのである。

化粧坂説明板  鎌倉七口(ななくち 名越、朝比奈、巨福呂、亀ケ谷、化粧、大仏、極楽寺)は急峻で険阻な山道で、切通しと呼ばれる人工の隋道が掘り抜かれ、名超にはさらにお猿畠の大切岸(人工によって作られた切り立った崖)の断崖が高さ10m、長さ800mにわたって現存する。切通しにしても、切岸にしても攻撃側には圧倒的に不利で難攻の地点であるが、逆に防衛側にとっては、少数で、しかも有利な防御線となるのである。他に堀切(通路の一部を、通行を困難にした箇所)も多く見られ、防衛のための仕組みや工夫が随所になされていたのである。京都の貴族、藤原兼実が日記『玉葉』で「鎌倉城」と呼んでいるように、鎌倉は軍事都市、京都の感覚でいえば城塞都市といってもいいような町であったのだ。

 中世の女旅人、後深草院二条が化粧坂山上から見た鎌倉の景観は、予想される敵の来襲に備え、城塞の内側にひしめき合うようにして建てられている武士の居館、民屋の数々、それを二条は「袋の中に物を入れたるやう」と評したのだろう。

台峯展望台から北鎌倉遠望 台峯展望台から北鎌倉遠望(化粧坂山上からは樹木が茂り往時のように鎌倉の町を見晴るかすことは困難なようだ)

参考
日本景観学会鎌倉大会『鎌倉の景観と世界遺産への道』
レジメ「中世鎌倉の風景と精神」浅見和彦<成蹊大学教授>)、浅見和彦著『日本古典文学・旅百景』


『トンボの眼』ニュースレター 2012年10月8日掲載

『武家の古都・鎌倉』の世界文化遺産登録

武家の古都・鎌倉  今年は「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に推薦されることが決定された。近代以降に建造された産業施設が推薦されるのは国内で初めてである。登録されるかどうかは2014年に決まる見通しだ。

 ところで昨年は2件が推薦された。それまで2件とされていた各国からユネスコ世界遺産委員会への推薦が13年から1件に制限されることもあって駆け込みの形で「富士山」と「武家の古都・鎌倉」の2件が推薦された。富士山はかつて自然遺産をめざしたが、コニーデ型の火山は世界中にいくつもあるということで国内段階で落選、生態系や地形などの自然遺産への登録をめざしていたことから建造物や遺跡などの「文化遺産」への登録に転換し推薦にこぎつけた。山が「信仰」の対象で、美しい景観が浮世絵に描かれるなど「芸術の源泉」になったことを訴えている。一方、鎌倉は、姫路城や「古都京都」などと並んで1992年にいち早く文化庁の暫定リストに登録された。だが、国から正式な推薦を受けられないまま、京都や奈良だけでなく、原爆ドーム(広島県)や石見銀山遺跡(島根県)、平泉(岩手県)にも先を越された。「古都」としての鎌倉を差別化してアピールするため、県や鎌倉市は2004年、「古都鎌倉」を「武家の古都鎌倉」と言い換える戦略に改めた。そして09年からは海外の有識者を招いた国際会議を繰り返し、ユネスコが重視する独自性と「普遍的な価値」をアピールして推薦にこぎつけたといういきさつがある。この2件が登録されるかどうかは来年のユネスコ世界遺産委員会で決まる。

 来年6月17日〜27日にカンボジアのプノンペンでユネスコ世界遺産委員会がひらかれることが発表された。また鎌倉に関してだが、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関イコモスが9月24日〜27日まで現地調査することも発表された。発表によると、調査員は中国イコモス国内委員の王力軍(ワン・リジュン)氏で24日に神奈川いりして鶴岡八幡宮などを訪れ、国が提出した推薦書の内容を確認する。王氏が提出する現地調査の報告書をイコモスが審査し、評価をユネスコ世界遺産センターに答申する。答申内容は登録、登録延期、不登録などがあり、答申は委員会が開催される6週間前までに行われる。

『武家の古都・鎌倉』の交通問題

 鎌倉市への観光客は昨年1年間で、約1000万人、「世界文化遺産」になろうがなるまいが観光地という意味では、既に日本でも有数の観光地だ。しかし、その鎌倉が難題を抱えている。交通混雑問題だ。

 人と車の流れが交わる八幡宮前のスクランブル交差点、3方向からの車が集中することから鎌倉市内の混雑が発生する。県道横浜鎌倉線(鎌倉街道)、県道金沢鎌倉線(金沢街道)、国道134号から若宮大路にかけては土日、祭日には交通渋滞が眼に余る状況となる。それだけではなく狭い歩道、車道は危険ですらある。

 なぜこんなことになるのか。驚くことに県道とはいいながら鎌倉街道、金沢街道、この2街道は昔ながらの街道なのだ。時代とともに車の交通量が増えたにかかわらず拡幅工事やバイパス工事がされた様子はない。古都保存法、景観法などの規制があったのかも知れない。いずれにしろ現状にそぐわないままに放置されてきたに等しい。混雑するのは当たり前なのだ。イメージいただきたいのだが、例えば街道として有名な中山道の宿場町・妻籠宿や馬籠宿のように股旅ものが闊歩するような江戸時代の風情を再現した街道に車が押し寄せ、乗込むようなものだ。渋滞、排ガスの悪臭が発生しないわけがない。

 思い切って中途半端は「パークアンドライド」方式などでなく、全面「マイカー乗り入れ禁止」にすればどうだろうか。車が混雑する北鎌倉、鎌倉間などは歩いてもせいぜい2キロ、建長寺をはじめとする文化遺産が目白押しで人気スポットだ。ならばこの道などは街道本来の車が進入しない「歩く道」とすればいいのではないだろうか。金沢街道はどこからを基点とするかは別として、これなら古都保存法にも景観法にも抵触しない。沿道の方々の不便にどう配慮するかの問題や利害調整などは克服できるのではないか。

 車で来る観光客は遠慮いただく。歩いて観光するのがいやな方はご遠慮いただく。観光客が減るのではと危惧される方もあるかと思うが、世界遺産ともなれば・・・。「車で来る観光客」が減った分は「歩く観光客」で十分おつりがくる。

 世界遺産登録に市民が冷めているわけではない。

 9月27日に混雑解消に向けた市民や国や県を含む行政、警察、商工業者らで構成される委員会の会合が開かれる。そこでは20もの案が見直される。無論、世界遺産登録がらみであることは間違いない。ことはそれほど簡単なことではないかもしれないが、市民意識調査でも「車を規制しなければ渋滞は解消しない」との認識はほぼ共有されているようだ。

横浜・関内の二つの博物館

 昨日午後、関内まで出かけた。横浜スタジアムの脇を抜けて日本大通りへ。雨上がりの銀杏並木が美しかった。今はまだ緑だがもう1ケ月もすれば横浜でも最も美しい黄葉の場となる。この一角に隣接して二つのユニークな博物館、横浜ユーラシア文化館と日本新聞博物館がある。

 日本・モンゴル外交関係樹立40周年企画展「モンゴル〜シベリアを歩く−鳥居・江上の大陸探検−」展(9月23日まで)を見た。鳥居龍蔵、江上波夫がモンゴル高原とそれに連なるシベリア地域で行った調査の収集資料や調査時の写真が展示されていた。

 …かく興味を感じるようになったのは、…同地旅行記等を好んで読んだから、自然にそれに伴われて行ったようである。そして単に読書で研究するばかりでなく、いつかは彼地に渡航し、実際に人類学・考古学の研究をして見たいものであると考えていたのであった。(鳥居龍蔵『満蒙其の他の思ひ出』岡倉書房、1936年より)、

 …かくて私はユウラシアの古代北方文化の解明には、どうしても東西両太洋に亙る広い観点からの研究が必要であると痛感し、そういう研究態度を以てこの茫漠たる未知の学問的領域に入って行こうと考えた…蒙古の匈奴を中心に、当方よりこの問題の闡明に能う限り努力したいと念願した。…(江上波夫『ユウラシア古代北方文化』全国書房、1947年、序より)

 36歳年長の鳥居が遼の遺跡を探査したのが70歳を越えて、80歳代でモンゴル高原を訪ねた江上、その江上先生がお亡くなりになってもう10年が経つ…。

 日本新聞博物館では10月6日〜12月16日まで「高句麗壁画古墳報道写真展」が開催される。共同通信社が2010年と2011年に平壌とその周辺の古墳5基を取材撮影したが76年前に日本の研究者が発掘した高山洞(コサンドン)1号墳(平壌)の四神図、外国メディアとして初めて取材した玉桃里(オクトリ)古墳(南浦ナンポ)の人物群像図などの写真が紹介される。また以前にも紹介された安岳(アナク)3号墳や江西大墓などの壁画写真(この2つの古墳の壁画は現地で見学可能で、実際、私も昨年、今年と2度の訪朝で見学した)、高山洞1号墳と高松塚古墳の実物大模型が展示される。

横浜ユーラシア博物館で行われた展覧会のチラシ 「高句麗壁画古墳報道写真展」

 日本大通りの銀杏並木が緑から黄色に衣替えする今、あるいは黄葉が黄色い絨毯を敷き詰めたように散るころ、是非、お出かけになることをお勧めします。

大正4年撮影の東京駅

大正4年撮影の東京駅 ▽発信/Sさん
 すごい写真だね。ありがとう。いずれ新しい東京駅を見に行くつもりだけどその折には、これをプリントして持って行き現地で見比べるよ。 丸の内口側一帯が「三菱ケ原」、「三菱村の四軒長屋」、「一丁倫敦」と呼ばれた時代があったことは東京育ちの小生は知っていたよ。でも、これほど鮮明な原っぱの写真は見たことない。
 ネットで以下の文を見つけたので、参考までに……

◆ 東京駅周辺は、八重洲側よりも丸の内側に感性が働く。こちらの方に、歴史の香りが強いからだ。 明治の頃、このあたりはただ広いばかりの草原で、陸軍省が所有する軍事演習の用地だった。それを三菱の2代目、岩崎弥之助が、当時の金128万円で払い下げを受けた。以来ここは三菱ケ原などと呼ばれたが、弥之助はここいら辺一帯を、日本の一大ビジネス・センターとしようと画策した。

 明治27年には三菱第1号館を馬場崎町に建て、28年には2号館、29年には3号館を建てて、32年には東京商工会議所もできるから、このあたりは「三菱村の四軒長屋」と呼ばれた。しかしそういう素朴な名称とは違って、これらはすべて近代的な赤煉瓦造りで、このあたりの一帯を、一挙に脱日本的な眺めに変えた。イギリスふうの煉瓦造りの建設はこののちも続いて、馬場崎町は、一丁ばかりロンドンにも似た景観が現れるのだが、これが世に言う「一丁倫敦時代」である。ぼくは記録写真などで見るこの景観が好きで、明治村に移築するならまずはここではなかったかと、個人的には思っている。 ここはさながら三菱が作りだした日本の倫敦だった。財閥が国家的事業を独占でき、思うままに都市も作りだせた、なんともよい時代だった。一丁倫敦は発展して、まもなくその北に、「一丁ニューヨーク」と呼ばれる一角もできたりする。

大正4年撮影の東京駅
写真提供/『トンボの眼』寄稿者・石崎勝義氏の大学時教養クラスメート仲間Yさん(三菱商事OB)

「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録

 先日の朝日新聞東京版に「キリシタン墓 眠る史実に迫る−相次ぐ発掘 進む研究」という記事を読んだ。大分県臼杵市の野津町下藤(のつまちしもふじ)地区での発掘で60基ばかりのキリシタン墓が確認されたこと、また近年、高槻城跡(大阪)、八重洲北口遺跡(東京)、豊後府内(大分)などで調査が相次いでいること、長崎市多以良(たいら)の垣内地区でもキリシタンのものらしき墓がみつかったという報告などが紹介されていた。またこの春には長崎県の南島原市教育委員から全国のキリシタン墓碑を網羅した『日本キリシタン墓碑総覧』が刊行されたことなどにより迫害の歴史に埋もれてきたキリシタン墓の研究が新たな段階に入ってきたと書かれていた。

 偶然からかフェースブックでキリシタンものを二つ見かけた。一つは0000さんがシェアーした△△△さん投稿の上記記事にも出ている『日本キリシタン墓碑総覧』の表紙写真を見た。また昨日、××××さんが投稿した島原の乱を題材とした飯島和一著『出星前夜』という小説、これも読むには読んだが数年前であらすじもさだかではない。

 古くは遠藤周作の『沈黙』をはじめとする歴史小説や紀行、松田毅一先生のルイス・フロイス『日本史』訳や南蛮研究、司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ『南蛮紀行』などを読んだこともあってか最近は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」登録活動にも関心を寄せている。フェースブウクという便利なパソコンページでこれらの情報が投稿されることを楽しみにしている。


『トンボの眼』ニュースレター 2012年1月19日掲載

山形県で小学校の校長をしている元新聞記者の長岡昇さんが発信しているメールマガジン「おおや通信」の転載です。

おおや通信(74) 2012年1月19日

納豆餅が山形では一番人気
その座をおびやかす磯辺巻きの躍進

 山形では、お正月に餅をたくさん食べます。種類も豊富です。クルミやゴマをすりつぶし、砂糖や醤油を加えて餅をくるみ、クルミ餅やゴマ餅として食べます。ずんだ餅というのは枝豆をすりつぶし、砂糖と塩少々を加えてまぶしたものです。
 この正月にどんな餅を食べたのか。どの餅が一番好きか。大谷小学校の生徒80人にアンケート調査をしてみました。用紙には9種類の餅と「その他」の10項目を設け、一番好きなものには1、次に好きなものには2、3と番号を書いてもらう方式です。1位は3点、2位と3位はそれぞれ2点、1点として集計しました。結果は次の通りです。

アンケート1年2年3年4年5年6年全校
1位納豆納豆納豆磯辺巻き納豆磯辺巻き納豆
2位ずんだ磯辺巻ききなこきなこあんこ納豆磯辺巻き
3位きなこきなこ磯辺巻き納豆ずんだあんこきなこ
4位ゴマあんこあんこずんだきなこずんだずんだ
5位クルミ雑煮雑煮雑煮磯辺巻き雑煮あんこ
6位磯辺巻きずんだずんだクルミクルミきなこ雑煮

 前回の調査(2年前)でもそうでしたが、今回も全体では納豆餅が断トツの1位でした。山形県全体で調査しても、たぶん同じような結果になるでしょう。納豆をあまり食べない関西や中国、四国出身の人にとっては驚きの結果かもしれません。

 全校集計の7〜9位はゴマ餅、クルミ餅、おろし餅(大根おろしをまぶした餅)の順でした。「その他」では、なんと「何も付けない白い餅」を挙げた生徒が4人もいました。つきたての餅をそのまま食べるのがおいしい、というわけです。「砂糖醤油」(さとうじょうゆ)を付けて食べるのが好き」という生徒もいました。

 私にとっては、磯辺巻きが全体で2位に入ったのが驚きでした。実は、2年前の調査では「調査項目」に入れていませんでした。私が子どもの頃(50年前)には見たこともない食べ方だったからです。初めて見たのは、東京で暮らし始めてからでした。なぜ見たこともなかったのか。年配の人の話を聞いたら、疑問はすぐに解けました。

 昔の農村では、それぞれの家で臼と杵を使って自分たちで餅をつきました。一升ほどついて、それを手で小さくちぎって、納豆やきなこ、あんこを入れた器に落としてまぶし、それから食べていました。ですから、少なくとも正月に食べる餅には磯辺巻きのようなものが登場するはずがなかったのです。「昔の農村は貧しく、海苔のような値の張るものはめったに買えなかった」という見方もありました。

 磯辺巻きは、切り餅を買ってきて焼いたりあぶったりして食べる、都会の食べ方だったのでしょう。それがジワジワと東北の農村に広がり、ついには伝統の納豆餅を脅かすほど人気を集めるに至った、と考えられます。実際、生徒たちに聞いてみると、自宅で臼と杵で餅をついている家庭は今や1割ほど、自動餅つき器でつくのが8割、残りの1割は最初から市販の切り餅、という結果でした。この半世紀で、餅のつき方も食べ方も大きく変わり、人気度も変わってきたことが分かります。
 というわけで、今年最初の校長の話では「納豆餅と磯辺巻き」を取り上げました。餅の人気ランキングは地区の人たちに配布する学校便りでも紹介しましたが、生徒たちにあらためてこの人気ランキングを示し、納豆が世界のどの地域で食べられているかを話しました。

 調べてみると、納豆は朝鮮半島の一部や中国の雲南省、タイやビルマの山岳地帯、インド北東部のインパールやコヒマ、シッキム地方、インドネシアのジャワ島など、アジアの各地で食材として使われていました。私自身、かつての激戦地インパールを訪ねて取材した時や、インドネシアの首都ジャカルタや農村でご馳走になったことがあります。インドネシアの納豆は「テンペ」といい、日本の納豆とはかなり趣の異なる食べ物でしたが。

 納豆という身近な食材からも、世界にはいろいろな国や地域があることを学ぶことができます。磯辺巻きが躍進した背景には、餅つきの衰退と農村の食生活の変化という時の移ろいが映し出されています。この子たちが大人になり、親になった時、餅の人気ランキングはどうなっているでしょうか。

(完)

長岡 昇
NPO「ブナの森」 代表
ウェブサイト : http://bunanomori.org/


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写真レポート
「ぶらり散策/古都鎌倉(3) 浄智寺」

佐々木 章

甘露井 木造観音菩薩立像 横穴
山門 ケイトウ 木造三世仏坐像
ビャクシン コウヤマキ 黄色花

一口メモ
浄智寺 鎌倉五山第四位金宝山 臨済宗円覚寺派

 執権北条時頼の3男宗政が29歳の若さで弘安4年(1281)に没しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起し、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。開山は中国の名僧兀案普寧と仏源禅師大休正念および日本僧の真応禅師南州宏海の3人が名を連ねている。以後、高僧が次々に迎えられている。延文元年(1356)の火災で初期の伽藍を失うが室町時代ごろには塔頭が建ちそろっていた。しかし、戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くも次第にかつての繁栄ぶりを失う。江戸時代の後期ごろには仏殿、方丈、鐘楼、外門、惣門などがあったが、大正12年の関東大震災でほとんどが倒壊し、現在は三門、楼門、新しい仏殿の曇花殿、方丈、客殿などが伽藍を形作っている。参道入り口の石橋のほとりにある甘露の井は鎌倉十井のひとつ。また参道右横の大木タチヒガンは県指定百選の一つに、仏殿横のコウヤマキ、鐘楼前のビャクシンは市の指定文化財である。


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写真レポート「イランの遺跡をめぐる(下)/
ナグシェ・ラシャブ遺跡・ナグシェ・ロスタム遺跡他」

写真撮影 福嶋 昌彦

ナグシェ・ラシャブ遺跡 ナグシェ・ラシャブ遺跡 ナグシェ・ロスタム遺跡
アルデシール1世の王権叙任のレリーフ、子供がのちのシャーブール1世/ナグシェ・ラシャブ遺跡 ゾロアスター教の神官・カルディールより王権叙任を受けるシャープール1世/ナグシェ・ラシャブ遺跡 シャープール1世の捕虜になったローマのヴァレリアヌス皇帝/ナグシェ・ロスタム遺跡
ナグシェ・ロスタム遺跡 ナグシェ・ロスタム遺跡 ナグシェ・ロスタム遺跡
下方にレリーフが良く残っている4基の王墓/ナグシェ・ロスタム遺跡 騎馬戦勝のレリーフ/ナグシェ・ロスタム遺跡 砂に埋もれたゾロアスター教神殿(昔の地表は10mの地下)/ナグシェ・ロスタム遺跡
パサルガダエ遺跡 パサルガダエ遺跡 パサルガダエ遺跡
突っかい棒でやっと持ちこたえているゾロアスター教神殿/パサルガダエ遺跡 プライベート神殿の石柱と基壇(3段のうち最下段層は黒大理石使用)/パサルガダエ遺跡 7段石積みの小型ピラミッッド状のキュロス2世の王墓/パサルガダエ遺跡
テベ・シアルク遺跡 テベ・シアルク遺跡 テベ・シアルク遺跡
テベ・シアルクの南丘(イラン最古ともいわれるBC3000年頃の日乾煉瓦で積み上げたジクラット・神殿)/テベ・シアルク遺跡 テベ・シアルク遺跡での福嶋さん 無数の彩文土器片がゴロゴロ/テベ・シアルク遺跡

福嶋昌彦さんのホームページ
「私のホームページは旅の紹介になります」


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写真レポート
「ぶらり散策/古都鎌倉(2) 東慶寺」

佐々木 章

ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉
ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉
東慶寺 東慶寺 東慶寺
東慶寺 東慶寺 東慶寺

一口メモ
北鎌倉 松ケ岡東慶寺

 禅・臨済宗。鎌倉市山の内、横須賀線北鎌倉駅前、徒歩3分。

 開山は北条時宗夫人覚山尼。弘安8年(1285)開創。五世後醍醐天皇皇女用堂尼以来松ケ岡御所といわれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼、明治に至るまで男子禁制の尼寺で、駈入寺また縁切寺としてあまたの女人を救済した。今は前円覚寺管長釈宗演禅師を中興開山とする男禅寺。


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写真レポート
「ぶらり散策/古都鎌倉(1) 円覚寺」

佐々木 章

 世界遺産を目指す鎌倉に関心が高まっています。

 鎌倉は都心にも近く、横須賀線の北鎌倉で降りて、徒歩で鶴岡八幡宮方面に向かう。それとも東海道線で藤沢に出て、江ノ電に乗り換えて江ノ島経由で鎌倉へ出るか…どちらも車を使わずに電車と徒歩でぶらりと訪れることができる心癒される古都です。古刹の甍、仏様、静寂な庭園、花々…。

 古都鎌倉のブラリ散策を四季折々に伝えて行きたいと思います。今回はまず、円覚寺、浄智寺、東慶寺、瑞泉寺など古刹の多い北鎌倉から。ということでまず北鎌倉駅に最も近く、18ヶ寺の塔頭がある円覚寺の山内を写真レポートします。

ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉
ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉 ぶらり散策/古都鎌倉
円覚寺 円覚寺 円覚寺
円覚寺 円覚寺 円覚寺

一口メモ
鎌倉五山 大本山 円覚寺

 円覚寺は瑞鹿山円覚興聖禅寺と号し、臨済宗円覚寺派の大本山である。弘安5年(1282)鎌倉幕府八代執権北条時宗公が開基となり、中国の名僧無学祖元(仏光禅師円満常照国師)を開山第一世にむかえて開堂した。創建の趣旨は、国家を鎮護し仏法を紹隆すると共に、文永・弘安の度重なる蒙古の襲来で戦没した敵味方の霊をなぐさめる為であった。

元寇

 鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル(元)軍による日本侵攻。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2回あり、いずれも北部九州が戦場となった。弘安の役では約4400隻の元寇船が襲来し鷹島沖に集結した。

ホット・ニュース
元寇船 長崎沖で発見 ほぼ原形のまま、海底に

 琉球大法文学部の池田栄史(よしふみ)教授らの研究チームが、長崎県松浦市の鷹島沖の海底に、13世紀の元寇の沈没船がほぼ原形をとどめた形で埋まっていることを明らかにした。鷹島沖合の水深20〜25メートルの海底、約1メートルの砂泥に埋まって横たわった状態で見つかった。船の背骨にあたる重要な部材(竜骨=キール)が幅約50センチ、長さ約15メートルにわたって確認され、キールの両側に沿って外板が2〜5メートルの範囲で並んでいた。周囲で中国産の陶磁器片やれんが散乱した状態で大量に見つかり、これらの遺物から元寇船だと確認できたという。研究チームによると、船体は20日間の水中発掘調査をした範囲(約10メートル×15メートル)を超えて広がっていることは確実で、全長20メートルを超える大型船だった可能性が高いと推定している。玄界灘に面した鷹島は元寇の際、元の水軍4400隻が嵐に遭遇して大半が沈没した地とされる。これまでの調査でも元寇船のものと考えられる碇石、武具、陶磁器などが見つかっている。(朝日20111021朝刊)

注 写真レポートは読者が作るコーナーです。皆様の投稿をお待ちしております。
投稿いただける方は

連絡『トンボの眼』編集室
TEL : 090-1706-6024
メール : tonbo_sasaki@ybb.ne.jp 佐々木まで


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写真レポート
「イランの遺跡をめぐる(上)/テヘラン考古博物館・ペリセポリス」

テヘラン考古博物館・ペリセポリス イラン西南部のチョガザンビル出土の牛 テヘラン考古博物館・ペリセポリス
イランの遺跡 イラン西南部のチョガザンビル出土の牛 イランの遺跡
テヘラン考古博物館・ペリセポリス ダリウス大王の謁見のレリーフ ペルセポリス出土の山羊の柱頭
イランの遺跡 ダリウス大王の謁見のレリーフ(ペルセポリス出土) ペルセポリス出土の山羊の柱頭
一枚岩から彫った階段 ホマ(グリフィン)鷲の頭と翼 アブダナ(謁見の間)全景
一枚岩から彫った階段(側面にレリーフが) ホマ(グリフィン)鷲の頭と翼 アブダナ(謁見の間)全景
南階段の側壁 百柱の間の入口レリーフ アルタクセルクセス二世の王墓
南階段の側壁には植民地からの貢物(羊)が 百柱の間の入口レリーフ片側50人、両側で100人の軍隊が警護する 東側斜面を利用したアルタクセルクセス二世の王墓を遠望
アルタクセルクセス二世の墓 鏡の間をバックに記念写真 万国の門東口での福嶋昌彦さん
アルタクセルクセス二世の墓より遺跡を俯瞰 鏡の間をバックに記念写真(黒大理石で創建時は顔が映るほど) 万国の門(クセルクセス門)東口での福嶋昌彦さん

福嶋昌彦さんのホームページ
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『トンボの眼』ニュースレター No.20

戦災からよみがえったテル・ハラフの彫刻群

穴澤咊光

 6月末からバルト海クルーズに行ってきました。今度のクルーズでは一般の乗客とは異なり、自分のペースで寄港地の博物館見学を主な目的にして2週間できわめて多くのモノを観て画像におさめてきました。

彫刻の砕片と復原の過程  その中で強く印象に残ったのは、ベルリン(ロストックの外港ヴァーネミュンデから往復13時間のシャトルバス、ベルリン自由行動ツアー)で有名なペルガモン博物館を見てきたことです。

 ペルガモン博物館は、ご存知のように、20世紀初頭のドイツ帝国最盛期に、ドイツがトルコや中近東で発掘した古代遺跡の一部をそっくりそのままベルリンに解体移動し、博物館内に再現した壮大な施設で、その目玉は「ペルガモンのゼウスの大祭壇」「ミレトスの市場門」「バビロンのイシュタール門」などですが、館内には特別展の会場もあります。

 出発前からドイツの考古学や歴史の雑誌で知っていたのですが、この博物館ではちょうど、第二次世界大戦の戦災で粉々に破壊されたベルリンの旧テル・ハラフ博物館の石造彫刻群を7年かけて整理復原したという、文化財復旧の一大プロジェクトの成果を公開する特別展をやっていました。それを見るのも大きな目的でした。

 テル・ハラフはトルコ国境に近い北シリアにある遺丘で、1899年、ドイツ帝国が建設を企画していたバグタット鉄道の予定地を調査していたドイツの民間オリエンタリストのマックス フオン オッペンハイム(1860-1946)によって発見された。テルに石造彫刻で飾った古代都市が埋もれていることを知ったオッペンハイムは、父が富裕な銀行家だったので、政府の援助なしで発掘調査を計画、第一次大戦勃発前年まで調査がおこなわれた。この遺跡は下層が彩色土器をともなう新石器時代(「ハラフ期」の名前で学界に周知)、上層が前10−8世紀の小王国グザナの遺跡。グザナは続ヒッタイト文化の影響をうけたアラム人の王国で、その宮殿や神殿は多くの神像、聖獣、神鳥、人物などの石造彫刻で飾られており、第一次大戦後、それらは折半して一部はダマスカスの博物館におさめ、一部はベルリンに運ばれた。オッペンハイムはこれをベルガモン博物館の中にある近東博物館に展示保存してもらう希望だったが、オッペンハイム個人の財政問題が障害になり、交渉が進まず、一時的な展示施設として、市内シャロッテンブルグにある工科大学の元付属工場建物の提供をうけ、1930年に『テル・ハラフ博物館』を開館。西欧やアラブ世界の有名人の来館者も多く、グザナ王カバラの宮殿玄関を復元した大胆な展示とあいまってベルリンの名所になった。第二次大戦が始まると国立博物館の可動重要展示品は安全な場所に疎開されたが、テル・ハラフ博物館は私立なので疎開ができなかった。

オッペンハイムが「我がビーナス」と呼んだ女性像の再現  1943年11月23日、『テル・ハラフ博物館』は英国空軍のベルリン爆撃でついに炎上した。元工場で、ベルガモン博物館のような不燃性建築でないので、屋根のタールや床の油脂製品が引火して全焼した。小さな遺物や石灰岩製の遺物や石膏のレプリカ類は全滅、大きな石造彫刻群は主に硬質の砂岩製だったので、その多くは猛火に耐えたとみられる。ところが建物は翌日もまだ燃えていたため、消防隊がやってきてホースで放水、これが災厄を引き起こした。放水によってまだ高温状態の石造彫刻はかえって亀裂を生じて割れ、粉々に砕け散ってしまった。

 被災後、粉々に砕けた彫刻群と瓦礫トラック9台分を焼け跡から回収、ペルガモン博物館の地下室に搬入された。オッペンハイムは戦災に屈せず、時期をみてこれらの砕片を再修復して研究公開することを計画していたが、自分の住居すらも2度も戦災に会い、すべてを失いドイツ敗戦の翌年亡くなった。

 テル ハラフの被災彫刻群の砕片はベルリンがソ連軍に占領され、戦後は分割され東ベルリンに位置したため、50年ちかくそのまま放置され、ドイツ統一後にその修復計画がはじめて可能になった。オッペンハイムの設立した基金の援助で、ペルガモン博物館内の古代近東博物館が整理にのりだした。

聖なる鳥の彫刻  これは、巨大規模の三次元のジグゾーパズルであった。砕片の数は27000片、写真記録のある彫刻の表面部分の破片だけでなく、内部の芯の部分も多数の砕片にわれ、それが熱によって変色、伸縮、変形しており、表面には火災による煤、タール、焼夷弾の燐などが付着汚染しているので、接合が容易ではない。熱による変形で、接合面がぴったりと合わないことが多い。コンピューターによる登録は芯の部分の石材の接合関係の推定には有効でないので、表面部分の破片のみをカタログに登録し、あとは実際に手作業で少しずつ接合できる砕片をつなぎあわせることから復原をはじめた。こまったことには、戦前の遺物の写真は、いずれも表側から撮影した画像に限られていて、ふだんは見えない裏側の写真がない場合が多いため、必要な情報が制限されていることだったという。

 こうして実に回収された砕片の95%が復原に成功、戦前の写真に較べると亀裂がはいり、歪み、変色し、一部が欠損するなど痛々しい状態ではあるが、ともかくもテル・ハラフの石造遺物群の大半は復活した。ただし、砕片の5%はどうにも接合するべき関係がわからず、そのままになっている。

 これにつけても感心させられるのは、発掘者オッペンハイムの決してヘコタレないネアカな人格と、不撓不屈の精神だった。彼の父は銀行家、帝政ドイツで男爵を授かり、カソリックになったがユダヤ人だった。そのため、オッペンハイムは、ドイツ有数のアラブ通だったのに、帝政時代には正規の官途にはつけず冷遇され、インフレで預金を失い、ナチ時代には困難な立場にたたされ、2度の戦災ですべてを失ったが、決して希望を捨てず、死ぬまで研究計画を語っていた。彼の生涯の座有銘は「頭をあげろ、もっと元気をだせ、もっとユーモアを持て・・」だったという。

 東日本大震災で多くの文化財の被害を受け、損害からまだ完全に立ち直れてはいない東北の我々を勇気づけるような展覧会でした。


『トンボの眼』ニュースレター No.19

東日本大震災復興 美術作品を救おう 美術館に活力を!

「チャリティーオークション 今日の美術展」

開催日時10月5日(水)〜9日(日)
開催場所東京美術倶楽部3F/4F(東京都港区新橋6-19-15)
入場無料

 東日本大震災の甚大な被害はいまも社会全体に深い爪痕を残していますが、被災地の人々を中心に復興へ歩みはじめ、全国からその歩みを支えてともに進んでいこうとする支援活動も活発になっています。また大地震で発生した福島県の原子力発電所の事故は、いまだに予断を許さない状態が続き、人々の生活に深刻な影響を与え続けています。直接の被災地、とりわけ大津波に襲われた地域の美術館施設で仕事をしていた学芸員には何人も命を落とされた方々がいらっしゃいます。その方々と膨大な数に上がる亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。

 こうした状況下で、東北地方、北関東の美術館、博物館施設をはじめ、さまざまな場で保存されてきた文化財、美術品も数々の被害を蒙り、美術館活動にも大きな支障が出ています。現在、文化庁が主導する「文化財レスキュー事業」が実施され全国美術館会議もその一翼を担い、多くの学芸員が美術作品をはじめとする文化財の救出修復に当たっています。

 緊急の対処を必要とする美術作品の救出修復のみならず、このたびの大震災と原発事故の影響は、今後長い間、さまざまな形で美術館活動に及ぶものと考えざるを得ません。全国360館余りの国公市立美術館が参加する全国美術館会議は、今回の事態を美術館全体の危機、さらには美術そのものの危機と捉え、被害を受けた美術作品、美術館施設への対処、展覧会の中止や予算の大幅な削減によって停滞する美術館活動の回復をはからなければならないと考えています。

 その一環として、全国美術館会議、全国美術商連合会、文化庁および関係団体と新聞、放送各社の共催後援により、「東日本大震災復興チャリティー・オークション 今日の美術展」を開催し、そこに寄せられた義捐の志を、美術作品の救済、美術館活動の十分な維持のために資するよう目指しています。いま被災地では、生活の復興、社会機能の回復に迫られていますが、ほどなく美術の豊かな力が必要になっていくと確信しております。

 上記の趣旨にご賛同をいただきました約400人の作家の方々から無償で作品を提供いただき、オークションにより得た収益を震災の被害を受けた東北、北関東の美術館が所蔵する美術作品の救済とそれらの美術館の今後の活動を支援するための義捐金として活用させていただきます。(開催趣旨より)

チャリティーオークション 今日の美術展 チャリティーオークション 今日の美術展

■ 本展は、美術の分野で活躍している多くの画家、彫刻家、工芸家、写真家等に当該展覧会への作品提供を依頼し、当該作品の展覧を行うと共に入札を実施し、その純益金を、東日本大震災で被災した地域における美術品・展示施設の修復・修理、展示・教育普及活動の支援等に供するために開催します。


『トンボの眼』ニュースレター No.18

奥松島縄文村再生プロジェクト−蕎麦で里浜の再生を−

 あの大震災からはや5ヶ月が経ちました。里山貝塚は今、夏草に覆われ、ミンミンゼミの蝉時雨のなかで、なに事も無かったかのようにおだやかです。しかし、3月11の爪痕は、この5ヶ月という時間を経てもなお、深く深く刻まれています。

 里浜貝塚があります宮戸(みやと)島では太平洋に面した大浜、月浜、室浜の3つの集落は壊滅してしまいました。里浜も地震そのもので大きな被害を受けていますが、津波被害は内湾に面していたことから比較的軽く済みました。宮戸の人達は先人の教えを良く守り、地震の後、いち早く宮戸小学校など高台に避難したとのことです。縄文人が里浜の地を選んで生活したというのも地震・津波とは無関係ではなかったのでしょう。

 さて、東松島市奥松島縄文村歴史資料館では、例年、里浜貝塚ファンクラブを通して春の牡蠣養殖体験、潮干狩りから貝染め、土器作り、塩作り、縄文の釣り、縄文講座、蕎麦打ち体験など、年間を通して様々なイベントを行い、皆様に縄文を発信すると共に、一緒に縄文を楽しみ、体験するイベントを重ねて参りました。

 しかし、この震災で、今なお行方不明者が100人を越え、甚大な被害を受けた東松島市では市民の生活の支援と復旧。復興に手一杯で、とても縄文の文化に触れるような活動を行うゆとりはなく、縄文村歴史資料館の表向きの活動はすべて中止となりました。資料館では文化財レスキュー事業として少しずつ展示品の清掃などを進めてはいますが、未だ再開の目処は立っていません。その一方で、全国の皆さんからは何とか奥松島の、宮戸島の、そして里浜の手助けができないものか、との暑い声も数多く寄せられています。

 蕎麦は例年ですと東松島市の予算で(社)東松島市シルバー人材センターに委託して夏に種をまき、秋に収穫してもらい、それを使って蕎麦打ち体経教室を行ったりしてきました。しかし、市には例年の予算をここに回すゆとりは全くありませんので、今年は昨年秋に植えつけた菜種の収穫は行ったものの、その後、史跡公園の畑は夏草の生い茂るがままとなっています。

 そうした中で、奥松島の、里浜の再生につながるイベントを地元、縄文資料館と手を携えて行えないかと言うことで、このたび、「蕎麦で里浜の再生を」プロジェクトを行うこととしました。

 このプロジェクトでは例年市からの予算でまかなってきた経費をすべて皆様からの浄財でまかないたいと思います。種まき前の畑お越しから始まって収穫、蕎麦の粉牽きまでの全部の経費を50万円と見積もりまして、この50万円を目標に皆様からのご寄付を是非とも御願い申しあげます。また、種まき祭、収穫祭などのイベントにもふるってご参加下さいますよう、重ねてご案内申し上げます。

2011年8月15日
奥松島縄文再生プロジェクト実行委員会
代表 岡村道雄

実行委員会事務局
〒890-0862 仙台市青葉区川内12-2
東北大学植物園 鈴木三男
電話&FAX 022-795-6788
メール mitsuos@m.tohoku.ac.jp
(不在がちですので出来る限りメールをご利用下さい)

プロジェクトのあらましとイベント

 東松島市のシルバーの方々もこのところようやくがれきの撤去や家の片付けなど以外の事をする時間が少し持てるようになってきたそうですので、例年通り、蕎麦の作付けから収穫までの作業を(社)東松島市ディルバー人材センターに委託して行っていただきます。

・作付け場所 : 里浜貝塚史跡公園内の畑および台囲地区にある里浜のシンボルのタブノキの周囲
・イベント1蕎種まき祭り(9月4日)
・イベント2蕎麦収穫祭り(11月20日)
・イベント3里浜蕎麦を味わう会(1月予定、蕎麦打ち体経教室など企画立案中)

寄付金のご送金

 1口1,000円(何口でも結構です)
 この寄付金は種まき前の畑お越しから始まって、タネ代、草刈り、収穫、その後の畑整理、蕎麦の粉轢きまでの経費とこれらの事業を皆様にお知らせ、報告するための通信費などすべてあてられます。
 送金先 郵便振替口座 口座記号 02210-9-126202
 口座名 里浜再生プロジェクト実行委員会

−蕎麦で里浜の再生を−  ようやく秋の気配がしてきましたが、いかがおすごしでしょうか。

 私は、3・11の三陸大津波以来、宮戸島の自然と歴史などを活かした復興を考え、一方で故郷・上越高田で北陸新幹線駅前で忽然と現れた釜蓋遺跡(弥生末環濠集落)の史跡整備に伴う発掘を目一杯手伝っています。

 さて、このたび鈴木三男さんが呼びかけ、佐藤隆志(里浜貝塚ファンクラブ、縄文村村長)・近藤二郎(早稲田大学教授)、永六輔(作家)・中山千夏(作家)・佐古和枝(関西外国語大学教授)・白井貴子(シンガーソングライター)・苅谷俊介さん(俳優)ら(編集部注・以上の方々は実行委員会委員メンバーです)が支援してくれることになった宮戸島の復興「蕎麦で里浜の再生を」が立ち上がりなんとか蕎麦を手始めに前に進もうと、蕎麦の植え付けを行いました。11月20日には、刈り入れ・収穫も行う、「宮戸島里浜貝塚まつり・蕎麦収穫祭り」もおこなうことを考えています。

 是非、参加していただけないでしょうか。

岡村道雄


『トンボの眼』ニュースレター No.17

「特別な2学期」が始まった

おおや通信(66) 2011年8月23日

 東北の小学校の夏休みは短く、大谷小学校でもきのう(22日)から2学期が始まりました。始業式では、校長として「よく遊びよく学べ」という夏休みモードから「よく学びよく遊べ」という勉強モードに切り替えましょう、と呼びかけたうえで、子どもたちに「今年の2学期は特別な2学期になりました」という話をしました。

 東京電力の原発事故で大量の放射性物質がまき散らされたため、福島県の多くの学校ではグラウンドを使えない状態が続き、親たちが不安と不満を募らせています。そして、夏休みを前に「もうこんな状態には耐えられない」と、子どもを県内外に避難させる決断をした親がたくさん出てきました。「原発疎開」に拍車がかかっているのです。

 2学期から山形県内に転校した福島県の生徒は、小学生だけで280人を上回りました。夏休み前に転入した生徒を含めると、山形県内の小学校への転入者は900人を超えます。もちろん、中学生や高校生も来ています。山形県だけでなく、宮城県や茨城県、北関東や首都圏にも、ものすごい数の生徒が転校していきました。

 読売新聞福島版によると、原発事故の後、福島県内でこれまでに転校した小学生と中学生は合計で1万4000人に上り、全体の1割近くに達しています。このうち、同じ福島県内の放射線レベルの低い地域に転校した生徒が4割、残りの6割は県外への疎開です。

 始業式の校長あいさつで、私は「この100年間で日本の子どもたちが危ないところからたくさん逃げ出したのは2回しかありません。先のアジア太平洋戦争の時、空から爆弾が降ってくる空襲から逃れるための疎開と、今回の原発事故による疎開の2回です。危険なところから危険でないところに移ること、それを疎開と言います。3月の大震災とそれに続く原発事故によって、そうした疎開が始まり、2学期から新しい学校に移る生徒がたくさん出てしまったのです。今年の2学期は『特別な2学期』になりました。そのことを胸に刻んでおきましょう」と述べました。

 続けて「多数の日本人が放射能の被害を受けるのはこれが3回目です」とも説明しました。「1回目は8月6日の広島への原爆投下、2回目は8月9日の長崎への原爆投下。そして、3回目が今回の福島の原発事故による被害です。そのことも、よく覚えておきましょう」と結びました。

 2学期の始業式の校長あいさつとしては、異例の長いあいさつでしたが、生徒たちは静かに聞いていました。子どもなりに、なにかとてつもないことが起きていることを感じているのだと思います。

 疎開というのは本来、都会から人の少ない田舎に移動することを表現する言葉のようですが、私はあえて「原発疎開」という言葉を使いたい。ほかの言葉が思い浮かばないからです。疎開する生徒もつらいし、残る生徒もつらい。福島県では、なんとも切ない状況が続いています。「日本の原子力発電所では大きな事故など起こり得ない。クリーンで効率的な電力源です」と唱えて原発建設を推進し、事故への備えを怠ってきた人たちの罪深さをあらためて思います。

秋の味覚の暴落

おおや通信(67) 2011年9月6日

 いつもの年なら、秋は農民にとって待ちかねた、胸躍る季節です。春先から流した汗の結晶を手にする季節だからです。けれども、この秋は農民、とりわけ東北の農民にとって、今までに経験したことがないほど憂鬱な季節になってしまいました。福島の原発事故の影響で、果物や野菜の出荷価格が暴落しているからです。

 暴落は8月下旬の桃から始まりました。桃の大産地である福島県には例年、桃を買い求める観光客が直売所に押し寄せるのですが、当然のことながら今年はその流れがピタッと止まってしまいました。桃の生産農家はやむなく、青果市場に出荷しましたが、これまた当然のように買いたたかれ、出荷価格は例年の半分以下、日によっては10分の1まで下がってしまった、と聞きました。

 市場に桃があふれた結果、やはり桃の産地である山梨や山形の桃の出荷価格も暴落しました。山形の生産農家は「福島の農家には投げ売りのような出荷をやめて欲しい」と嘆くのですが、そうもいかない事情があります。福島の生産農家にしてみれば、実際に出荷して売上伝票を手にしなければ、東京電力に事故による損害賠償を請求する根拠が得られないからです。「暴落」を示す出荷伝票をもとに「これだけの損害を被った」と主張するしかないのです。

 9月に入り、福島産の桃の出荷が終わったため、桃の値段は例年近くまで戻したそうですが、山形県の農協関係者は「これから梨の出荷が始まる。続いてブドウ、リンゴ、米の出荷も始まる。すべての作物で桃と同じことが繰り返されるのではないか。暴落がどの範囲まで広がるのか予想もつかない」と顔を曇らせています。酪農だけでなく、野菜栽培や稲作への打撃もきわめて深刻です。

 憂鬱な秋が「今年限り」ならば、まだ「なんとか乗り切っていこう」という元気も出るでしょう。しかし、放射性物質による汚染の影響が何年続くのか、汚染のレベルが低くなったとしても風評被害は収まるのか、答えられる人は誰もいません。なにせ、4基もの原発がこれほど長期にわたって放射性物質をまき散らした前例はないのですから。

 なんと罪深い事故であることか。原発の安全神話を唱えてきた政治家と官僚、電力業界、研究者たちの無責任さにあらためて強い怒りを覚えます。そして、自分を含めて原子力発電が持つ可能性と危険性を冷静にバランス良く伝えることができなかったメディアも、その責めから逃れることはできません。

 バラ色の夢を語る者には注意せよ――昔からそう言われてきたのに、なぜ同じような過ちを繰り返してしまうのか。人はついに歴史から学ぶことができないのか。秋雲がたなびき始めた空を見上げながら、考え込んでいます。

※山形県で小学校の校長をしている元新聞記者が発信しているメールマガジン「おおや通信」の転載です。


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『トンボの眼』ニュースレター No.16

寄稿 「ミャンマーの基壇遺跡・ミングォン大仏塔」
―ミャンマーのマカラ(摩竭魚)その2―

大西 竹二郎

仏塔の基壇  バガンから国内線でマンダレーへ飛んだ。マンダレーはヤンゴンに次ぐ、ミャンマー第2の大都市だ。探訪先は、そのマンダレーの旧王都や遺跡、寺院などではなく、さらに、そこから約10キロほど北に位置するミングォンという地方集落だ。陸路で行くには不便なところのようで、私達はマンダレーの埠頭からチャーターした中型の渡し船に乗り、エーヤワディー川を北上した。一般の渡し船もあるのだが、外国人は利用出来ない。船上から川沿いの台地上に建つ白色や黄金色のパゴダを遠望し、川辺で洗い物をしている女性や水浴びをしている子どもたちに手を振ったりして、40分程経過していたのだろうか、突然、左手前方に巨大な岩山が見えてきた(写真1)。

ふたつの大きな岩塊  ミングォンの船着き場は砂浜で、板を伝わって、怖々と降りる私達を村の子供逹や水牛の荷車が出迎えてくれた。素朴な寒村といった印象だ。砂浜を奥に向かって歩いて行くと、2つの大きな岩の塊が見えてきた(写真2)。近寄ってみたら、どうも自然の岩ではなさそうだ。一周しながら観察したら、ボール球のように丸くなっていて、褌のように盛り上がった線条の細工がなされ、僅かだが漆喰の文様も残っていた(写真3)。

球状に細工された部分  私達は先を急いだ。あの巨大な岩山に早く近付きたかったからだ。そして、岩山の真下に着いた時、「なんだこれは!」と思わず息を飲んだ(写真4)。子供の頃、東京の丸ビルを見上げて、「わぁ、高い!」と驚いたことがあるが、そんな比ではない。まるで、石切り場で最後に残されてしまった四角い岩塊のようだ。しかし、垂直に切り立っ茶褐色の壁面は、鑿で打たれた荒削りのものではなく、滑らかな平面になっている。その平面を望遠レンズで覗いてみたら、どうやら、レンガの積み重ねからなっているようだ。そして、壁面入り口にはバガンなどでもよく見掛けたマカラからイメージされた門の造形が四面に見られたので、仏塔の台形基壇であることが徐々に納得された。

基壇全景

 然らば、なぜ、塔身が、その欠けらすら、見当たらないのだろうか。その辺のことになると、リーダーの助けを借りなければならなくなる。

亀裂部分  ビルマ族の王朝は、11世紀より13世紀まで続いた最初のバガン王朝を第一次に、その後、タウングー王朝が16世紀より18世紀まで、第二次ビルマ帝国として続いた。そして、18世紀より19世紀にかけてアラウンパヤー王朝が第三次ビルマ帝国として栄えた。そのアラウンパヤー王朝5代目のボードーパヤー王(在位1782〜1819年)の治世に、中国清代の高宗より、釈尊の歯一本が使節団によってもたらされた。そこで、ボードーパヤー王はエーヤワディー河に住居を構え、大仏塔の建設に取り掛かったのだそうだ。1790年のことで、日本では徳川家斉の治世に当たる。

 そして、9年後の1799年に、不幸なことに、王は基壇が積み上がったところで逝去されてしまったのだ。アラウンパヤー王朝は10代まで続いたのだが、その後の王様逹が大仏塔の完成を引き継ごうとした話は伝わっていない。9年間掛けて、レンガのブロックを隙間なく積み上げ、これだけ巨大な台形基壇を造るのには一体、幾つのブロックと人力を必要としたのだろうか。財政への圧迫は計り知れず、次世王逹も放置せざるを得なかったのではないだろうか。そして、7代目のターラーワディー王の治世、1839年に大地震が起こり、未完の台形基壇に大きな亀裂が入ってしまった(写真5)。あの2つのボール球のように見えた塊も、この時の地震で頭部が落ちた獅子岩であったようだ。臀部の丸みや尾の細工から見て、この獅子岩もすべてレンガブロックの積み重ねで造形されていたとみられている。

マカラ造形の配水管  私は基壇底辺部を一周してみた。さして高くない三層のレンガ積みから成っていて、そこにマカラ造形の排水管がずらり並んでいた(写真6)。これだけは石材からなっているように見えた。細長い顔に、剥き出した牙や歯を強調した素朴で土臭いマカラであった。

 この巨大な基壇跡は一般に「ミングォン大仏塔」と呼ばれている。その北隣りに、シンビューメ・パゴダが建っている(写真7)。ボードーパヤー王の跡を継いだ6代目のバジードー王(在位1819〜37年)が、まだ、王子であった1816年に、他界した夫人シンビューメを悼んで建てたのだそうだ。この造形はスメール山(須弥山)を模したといわれ、スメール山の山並みを波状の手摺で表現し、すべてを純白色に仕上げたユニークな造りは、ミャンマーの仏塔の中でも異色な建造物として評価されている。

ミンビューメ・パゴダ  ミングォンで出会った巨大で荒々しい茶褐色の基壇遺跡、それとは全く対照的な純白のシンビューメ・パゴダを前にした私は、日光の男体山と女峰山ではないが、なぜか、山や峰、岩に性別の名前を冠して、信仰する習俗が日本はもとより韓国やモンゴルにも見られることが思い出された。巨大な基壇上の塔身部分だけでも高さ150メートルのものが予定されていたと言われている。実現していたら、「ミングォン大仏塔」はミャンマー最大級の仏塔になっていたことは確かで、男峰のスメール山(須弥山)として、シンビューメ・パゴダと並び建っていたのではないかと惜しまれる。

(写真 大西竹二郎)


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写真レポート
「写真が語る北朝鮮(上)」

写真撮影 吉野晃司  がらす工房 彩硝房

ピョンヤン空港 ピョンヤン空港・駐車場 羊角島国際ホテルロビー
1-1)ピョンヤン空港 1-2)ピョンヤン空港・駐車場 1-3)羊角島国際ホテルロビー
羊角島ホテル朝食バイキング 朝食バイキング 婦人ピョンヤン市内交通警官
2-1)羊角島ホテル朝食バイキング 2-2)朝食バイキング 3-1)婦人ピョンヤン市内交通警官1
婦人ピョンヤン市内交通警官 婦人ピョンヤン市内交通警官 大成山遊園地入り口風景
3-2)婦人ピョンヤン市内交通警官2 3-3)婦人ピョンヤン市内交通警官3 4-1)大成山遊園地入り口風景
トラック 大成山に来た人 高層マンションと路面バス
4-2)トラック 4-3)大成山に来た人 5-1)高層マンションと路面バス
カラオケ 朝鮮式民泊ホテル 立ち往生のバス
5-2)カラオケ 5-3)朝鮮式民泊ホテル 5-4)立ち往生のバス
野外売店 リンゴ・梨 交通量0?
6-1)野外売店 6-2)リンゴ・梨 6-3)交通量0?

1-1) 北京から緊張の面持ちで下り立ったピョンヤン空港ではキム・イルソンの写真がお出迎え。
1-2) ピョンヤン空港駐車場に駐車していた送迎車は全て高級外車。
1-3) 大同江中洲にある外国人専用ホテル・羊角島国際のロビーは外国人観光客でごったがえしていた。

2-1、2-2)
ホテルの外国人専用レストランではバイキング式の朝食。レストランは2か所、一方は白人と我々日本人グループ、もう1つのレストランは中国人グループというように分けられていた。

3-1、3-2、3-3)
ピョンヤン市内の主な交差点では美人の婦人警察官が交通整理をしていた。皆さん非常に厚化粧でした…?

4-1、4-2、4-3)
5月1日は北朝鮮では国民的休日のために大成山遊園地に多くの人が遊びに来ていた。町からは電車で、農村部から来た人々はトラクターやトラックの荷台に乗ってやって来ていました。

5-1) ピョンヤン中心地と郊外の高層マンション住宅地への交通手段として2両連結の路面電車が道の両側を走っていました。
5-2) 昼食をしたレストランで給仕をしてくれた女の娘たちが昼食後、サービスとしてアリラン、トラジといった民謡を歌ってくれた。もちろんその前にキム・イルソン総統を讃える歌が謳われた。
5-3) 開城(ケソン)で泊まった朝鮮式民泊ホテルは、朝鮮時代の両班の屋敷を使用している宿で、小川を挟み雰囲気は最高でしたが、夜10時から朝8時30分まで停電のため真っ暗。トイレに行くのにも困りました。
5-4) 農道でバスの屋根に電線が引っかかってしまって立ち往生。電線が裸線のためショートする恐れがあるので、そこに徳興里古墳があるのに、それ以上進めず歩くはめになりました。

6-1、6-2、6-3)
開城−ピョンヤンの帰路間往復の高速道路でトイレ休憩をしたパーキング。往路にはみかけなかった野外売店が帰路には開店。綺麗な女子職員がリンゴ、梨などの果物や土産物を販売していました。もちろん胸にはキム・イルソンバッチをつけて。でも高速道路では我々の車以外に車が走っている光景は見かけなかったのですが。


『トンボの眼』ニュースレター No.15

寄稿 「ベネズエラとエクアドルの旅
(下)エクアドル・ガラパゴス諸島」

中西 倭

 南米で一番小さい国エクアドルは、石油以外にこれといった資源もなく、輸出品目の第二番目がなんとバナナだ。それにバラの花も五番目に入るくらい花の栽培が盛んな国である。しかしそれらはあくまで表向きのこと、実際のところ一番の収入源はなんといっても麻薬産業。つまりコカインであろうとも言われている。国民は米ドル紙幣を使い、国家としての自国通貨をもたない不思議な国である。僕が勝手な解釈をしているのだが、それは麻薬の金をマネーロンダリングするには、米国通貨のほうが都合がよいからかもしれない・・・なあんてことは・・・ないとは思うが・・・。そんなことは一旅行者に分かろう筈も無い。「エクアドル」はスペイン語で「赤道」という意味だ。それだけで、位置関係はすぐに理解できる。

 高原都市キトはアンデス山系の高山都市で、標高2,850メートル。どこかペルーのクスコの雰囲気に似ている。1,533年征服者スペイン人が、インカ帝国を滅亡させた際、キトの住民は街を、スペイン人ではなく、自らの手で破壊させたのだ。その後三百年間に及ぶ植民地時代。その様子をそのまま見られる旧市街は、1,978年ユネスコの世界遺産に登録された。1,809年の独立を記念した独立広場の記念碑は、地球儀の上に女神が金色の赤道の上に立っている。南米の鳥のシンボルともいえるコンドルが、鎖を嘴でちぎっているのがとても印象深い。碑の下にはスペインの象徴であるライオンのわき腹に、矢が刺さっている。これじゃライオン(スペイン)もたまったものではない。
 また、赤道記念碑では「赤道の線」というのが引かれていて、南半球と北半球を、世界中からの観光客が、両足で跨いで写真を撮っている。別段、ここだけが赤道直下というわけでもないのだが、なぜかみんなキャキャアと、はしゃいでいる。

 赤道を陣取ってゐる積乱雲
 サンダルの片足立ちや赤道線
 目に見えぬ赤道線上涼しかり
 金魚売スペイン教会参道に
 黄金の教会に入り涼しかり

「ガラパゴス諸島」

 ガラパゴス諸島へは、エクアドル共和国の首都キトから、グアヤキルを経由して3時間15分のフライトで、ガラパゴス諸島の玄関口、バルトラ島より入島した。ガラパゴスには北から暖かいパナマ海流が、南から冷たいペルー海流が、そして西からクロムウエル海流が流れ込むため、赤道直下の世界中のどの場所よりも過ごしやすいと言われている。島全体の九七%が、世界遺産に登録されている世界でも珍しい環境保全地区だ。南米大陸から1,000キロに位置し、太平洋上に赤道を跨ぐように、大小およそ百二十の島から形成されている。およそ500万年前の火山活動で、海底から隆起してできた島なので、島の生態物は、はじめから外部と隔離されていた。そこで独自の進化を続けた、世界でも珍しい観光地だ。

 さて、鶴は千年亀は万年と歌われているが、果たして亀は何年行き続けることができるのだろうか、古くから長寿の代表として、日本人からも慕われている動物だ。チャールズダーウイン研究所では、今もガラパゴスゾウガメの生態研究を続けている。ここでは2,008年生まれと、2,011年生まれのゾウガメが、それぞれ区切られてフェンスの中に飼育されている。つい今年生まれの亀は体長三センチといったところだろうか、3年前のそれに比べて2センチほどの違いでしかない。そうなると1年で1センチも成長しないのかもしれない。それぞれの亀は、甲羅に色違いで番号が打たれている。孵化して1年くらいの死亡率が最も高いそうだ。と言うのは、夜の間に猫やネズミの侵入を受けてやられてしまう。それを防ぐためには、フェンンスも頷ける。幼い亀は1週間に3度の食事を与えられ、5年もすれば外敵から身を守れるだけの甲羅の硬さに成長もする。亀は実に食欲旺盛で、とにかく草を食べ続けている。食べれば食べるだけ大きくなり続けるというのも、不思議な話だ。寿命は150年とも200年とも言われている。今生きている最年長は、ダーウインが持ち帰ったガラパゴスゾウガメが2,011年現在181歳である。

 ガラパゴスにはそのほかに、ノースセイモア島や、プラザ島にて、グンカンドリ、アオアシカツオドリ、アシカ、リクイグアナとウミイグアナ、そしてアカメカモメにも出会う事ができた。おそらく、これだけ世間から隔離された島は、もう地球上にはそう多く残ってはいないだろう。最後の楽園かもしれない。空気は澄んでいるし、赤道直下とはとても思えない、すがすがしい気候だ。海の色は何の混ざりのなく、実に透明であって、透明と透明が重なり合って、より透明になり、コバルト色になっている。

 麦藁帽被り入国手続きす
 次々と飛行機到着夏岬
 入国の手続き遅し炎天下
 大木が一本もなく天の川
 早起きの決心したる麦の秋
 夏来たる心準備もせぬ内に
 サボテンも緑陰となるガラパゴス
 サボテンの針ごと食すイグアナや
 ハンモック背中につきし縄目跡
 島全体緑となれるガラパゴス
 凸凹の道の青岬に続く
 生命の原点にゐる青岬
 炎天下絶海孤島飛行場
 サボテンの大木となり針長し
 夏の島今来たる人帰へる人

 ガラパゴスでの3泊4日は、毎朝4時に眼覚をセットしておいた。満天の星に出会いたかったからだ。そして夜明けまでの間、コテージのプールサイドにて、東の空が茜色に輝きだしてくるのを楽しんだ。僕は夜空の星が見えなくなって、朝焼けがなるまでの間を大切にしたいと常々思っている。僕はこのことを「星をいただく!」ことだと思っている。「星をいただく」ことによって、なにか得をしたような、今日もなにか良いことがありそうな、そんな気持ちになれる。だから僕にとって、早起きは大切なことなのだ。まして、今回の旅のように、絶海の孤島に位置しているこの島では当然のことながら、水平線から昇り来る朝日を拝める。朝日は生きる勇気を、喜びを、表しているような気がしてならない。眼前に広がる四海は実に波静かである。この島で亀に出会えた。鶴はいなかったものの、珍しいたくさんの鳥たちにも出会えた。でも、もう早く日本に帰りたくなった。海外に出たときこそ、日本のよさを改めて知ることができる。
 またして漢詩が頭をよぎった。今度は声を出して東海に向かって吟じてみた。

「祝賀詩」河野天頼

 四海波平漲瑞煙 五風十雨潤桑田
 福如東海沓無限 壽似南山長不騫
 鶴宿老松千載色 亀潜江漢萬尋淵
 芙蓉之雪大瀛水 磅ハク神州輝九天

 四海波平らかにして 瑞煙漲り
 (しかいなみたいらかにして ずいえんみなぎり)
 五風十雨 桑田を潤す
 (ごふうじゅうう そうでんをうるおす)
 福は東海の如く 杳かに限り無く
 (ふくはとうかいのごとく はるかにかぎりなく)
 壽は南山に似て 長えに騫けず
 (じゅはなんざんににて とこしえにかけず)
 鶴は宿る老松 千載の色
 (つるはやどるろうしょう せんざいのいろ)
 龜は濳む江漢 萬尋の淵
 (かめはひそむこうかん ばんじんのふち)
 芙蓉の雪 大瀛の水
 (ふようのゆき たいえいのみず)
 神州に磅ハクして 九天に輝く
 (しんしゅうにほうはくして きゅうてんにかがやく)

 (意解) 世の中は平和に静かに治まって、おめでたいもやが満ちわたっていて、五風十雨の順調な気候は田畑を潤している。幸福は東海のように広くどこまでも果てしなく、寿命は南山に似ていつまでも騫けることがない。鶴は老松に宿り千年の色を示し、亀は長江や漢江の万尋の深い淵に住むとか言われるが、ともに長寿でめでたい生き物である。富士山の雪に大海原の水、この気高き姿や広い気分が日本中に充満して天までも輝きわたるのである。

 こうして、二週間に及ぶ今年のゴールデンウイークの旅は終った。


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写真レポート
「ベネズエラとエクアドルの旅(ガラパゴス諸島編)」

写真撮影 中西 倭

ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島
ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島
ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島
ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島
ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島

『トンボの眼』ニュースレター No.14

寄稿 「北朝鮮旅行を終えて思うこと」

福嶋 昌彦

 外国旅行には多少は慣れていると自負していた私でも、今回はさすがに北朝鮮とあって最初は緊張しましたが、鴨緑江の鉄橋(出国前の臨検)、開城での停電騒動以外は行程中さほどのトラブルもなく、無事、念願の北朝鮮旅行を終えました。ご案内いただいた西谷先生始め、御仲間の皆様、大変お世話に成り有難う御座いました。

 帰国して雑用を片づけながら、粗製濫造ながら私のホームページ(文末にアドレス表示)に5日間で仕上げてアップしました。是非、ご一覧ください。

 ここではホームページと重複しますが、今回の旅行を振り返って私なりに感じたことを述べさせて頂きます。(帰国して旅行印象を話しますと友人に"洗脳"されて来たと笑いますが、実感からの印象です。)

(1)ホームレス・物乞い・浮浪者・ボロを纏った乞食と会わなかったこと。東南アジア諸国の様に昼から大勢が街路に屯して雑談し合っている姿が見られなかった。身なりこそ、地味で男女とも黒一色で特に赤黄碧等の華やかな色を着た女性と遭遇しなかった。男性の喫煙者は非常に多い(半数以上か)女性喫煙者は見かけない。

(2)バスの車窓からの眺めた限り、平壌の人も田舎の人も歩いて忙しく動き回り、或は自転車で物を運んだり活動的で勤勉さが見てとれた。年々、良く成って行くのではと思われる。

(3)水位の低かった洪水地帯もダムのお陰で優良水田に生まれ変わり、列車の車窓から見た田畑は地平線の彼方まで良く耕されていて、我が国の様な休耕田は見当たらない。耕耘機等の機械は見かけず、人力がすべて、牛に曳かせる姿は稀に見かけられた。地味の肥えてない咸鏡北道の一部に洪水による飢餓があったと報じられ、韓国の食料援助を仰いだこともあったが、現在は大分改善され、自給自足出来ると見てとれた。

(4)平壌には2輛連結の電車・バス、トロリーバス・地下鉄が走り大勢の人が通勤時には根気よく待っている姿があった。自家用乗用車・自家用軽トラック等は殆ど所持せず。タクシーはあれど使用者が少なく従って、どの道路もガラガラ、渋帯は全然見られない。車に頼る経済成長国は若者の脚の耐久力も弱るが、良く歩き、自転車を漕ぐ北朝鮮の人々は健康に良い。

(5)大学は出たけれど就職・結婚出来ず、将来の希望を失いつつある日本。生活水準は低いがすべて(初老を含む)の人が働く事が出来る北朝鮮。人間の幸福とは?福沢諭吉ではないが「人の幸せは天職が有る事だ」と述べているが、考えさせられる。

(6)観光には2人の日本語堪能な男性ガイドが付いた。1人で良いのに、もう1人は何のため?彼等の胸には金日成主席の顔写真と北鮮の旗のバッチが燦然と誇らし気に輝いていた。説明役の李さんは食事の際の余興のカラオケで熱唱したり自身の娘さんのことを話したり、人懐っこかった。もう一人の監視役?とおぼしき金さんは無口で厳しい目つきで、一寸怖い感じだった。

(7)平壌と違い、開城市では停電に遭遇。暗い中での食事、カメラの電池の充電が出来ず大騒ぎ(朝にはホテルの従業員が充電してくれていてことなきを得たが)。電力が不足。

(8)物資の輸送は車ではなく人力が貢献している様だ(例、新義州で大挙して列車から降り立つ買い出し部隊の大集団、摘発の光景こそないものの終戦直後の我が国を思い出した)。

(9)GDPでその国の豊かさを推測するが、年間3万人を超す自殺者を出す我が国はホームレスも多く、精神的にも病んでいる。決して豊かとは云えない。豊かになった中国では最近、不満を良く聞かされるが。良く歩き、自転車で活動する北朝鮮では勤勉そのもので不満さえなさそうに見えた。果たしてどちらが幸福か?考えさせられた。

(10)仕方なく我慢していると何時かは暴発するものだが、北朝鮮には今の所、政府を打倒する気配などまったく感じられなかった。

(11)最初から人なつっこかったガイドの李さん、始めはギロリ目で恐く感じた金さん、彼も終われば優しかった。別れの平壌駅頭では両人に情が移り別れを惜しんだ。金さんの役目はグループの中で勝手な行動をする人が出ないかを見守っていただけと思える。範囲内では写真を撮ることも全く自由で1000枚程撮った。それぞれ国の事情というものもある。北朝鮮旅行では仲間から離れて勝手な行動をしない限り安全であることを実感した。

(12)最後に日本女性に叱られるが、日本人は混血しない島国なので画一的で美人が出ないのか。陸続きの国は絶えず征服したり、されたり、混血されるので美人が出るのかしら?北朝鮮の女性は余り化粧せず美人揃いなのに驚いた。空港・レストラン・観光説明の女性案内人・ホテルの接客関係などには選んで美人を配して居るのかしら?街中を自由に散歩出来なかったので一般女性にも美人が多いのかは何とも言えないが…日本女性との比較、私の偏見でしたらお許し下さい。

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『トンボの眼』ニュースレター No.13

写真レポート「北朝鮮の旅」

写真撮影 福嶋 昌彦

北朝鮮の旅 北朝鮮の旅 北朝鮮の旅
大同江の中州に建つ48階の羊角島国際ホテル 金日成主席の銅像を背景に西谷先生と記念写真 大城山城の城壁を見あげる
北朝鮮の旅 北朝鮮の旅 北朝鮮の旅
安鶴宮跡、正面の山頂に大城山城 昼食処でウエイトレスがアリランとトラジのカラオケサービス 東明王陵参道の4人の武官
北朝鮮の旅 北朝鮮の旅 北朝鮮の旅
壁画に感動 安岳3号墳を背景に 高麗の王宮址・満月台での西谷先生の後姿 開城の民俗旅館 実は停電でとんだ目に
北朝鮮の旅 北朝鮮の旅 北朝鮮の旅
国宝の高麗青磁(高麗博物館) 板門店、北朝鮮側より韓国側俯瞰 大同江畔に立つ大同門
北朝鮮の旅 北朝鮮の旅 北朝鮮の旅
牡丹峰(モランボン)公園に残る七星門(チルソンムン)に登る 乙密台(ウル・ミル・デ)展望台よりの眺め 鴨緑江橋を渡り中国・丹東へ。丹東から撮影

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『トンボの眼』ニュースレター No.12

寄稿 「木更津金鈴塚古墳とその遺物の意義」

穴澤咊光(わこう)

復元物見台からハットゥシャの遺跡を望む

 千葉県木更津・富津は三浦半島から浦賀水道(走水)を渡って房総半島、常陸さらに陸奥に抜ける古代交通路の要衝にあり、東京湾に面して多くの古墳群が散在している。その中で、小櫃川河口の砂嘴のひとつ、浜長須賀に築かれた金鈴塚(二子山)、稲荷森大塚、松面の三古墳はおそらく大化前代にこの地を支配した馬来田国造の一族の奥津城と思われる。

 金鈴塚は現在では住宅街の中に、わずかに残った後円部と横穴式石室・石棺のみが残っているが、もとは二重の周溝をめぐらせた長さ100mほどの前方後円墳であった。埴輪はなく、昭和7年石室の一部から遺物が出土。昭和25年早稲田大学によって発掘調査された。内部は盗掘を免れ、優れた副葬品の数々が発見された。それは「埴輪と石製品を除くと古墳から出るほとんどすべての種類の遺物を網羅している・・」といわれるほどで、古墳の名前のもとになった小さな金の鈴、金モール断片、飾り金具、玉類、鏡、大刀をはじめとする武器類、甲冑、馬具、銅鋺、須恵器、土師器におよび、その全体が一括して国から重要文化財に指定され、国立東京文化財研究所で保存処理を受け、現地の木更津市博物館に保存公開されてきた。

復元物見台からハットゥシャの遺跡を望む  金鈴塚出土の遺物は6世紀後半から7世紀前半にかけ(新納泉氏の年代観にしたがう)前後三世代、3〜5名の埋葬に伴って副葬されたもので、古墳時代後期末の所産、関東地方で築造された前方後円墳の最終段階を示すものであり、その中で特に目立つのは金銅や銀で装飾した多くの飾大刀(頭椎大刀、圭頭大刀、単龍・双龍・獅噛環頭大刀、単鳳環?頭大刀、鶏冠頭大刀)であり、ひとつの古墳からこのように多数の装飾付大刀が出土した古墳は他に類例がない。被葬者の一族(おそらく馬来田国造)が大和王権や中央の有力豪族と特別な関係をもっていたことを暗示するもので、壬申の乱の天武側の武将の一人が「大伴馬来田」という名前であることを思い合わせて興味深い。

 だが、金鈴塚の発掘は敗戦後まもなくであり、その報告書「上総金鈴塚古墳」の刊行や遺物の重文指定などが、古墳時代考古学がその後大きく発展する以前に行われたため、古墳とその遺物に関しての新たな検討が必要になってきた。そこで、木更津市教育委員会は金鈴塚発掘当時の記録や写真にもとづき、発掘当時の遺物の出土状況を正確に再現すると共に、重要文化財として多くは台座に固定されたままになっている遺物を国立歴史民俗博物館に搬入し、文化庁の特別許可を得て台座から下ろし、各方面の専門家の協力下に各遺物のX線撮影、蛍光X線のよる材質検査、精密な実測図の作製・・などのデータをとり、主要遺物の正確な復原摸造品の作成を行う3年計画に着手している。これによって、現在までわからなかった多くの点が明らかにされ、これらの品々がいったい、いちごろ、どこで、どのようにして製作され、どのようなルートで馬来田に将来されたのか・・解明する手がかりが得られることを期待するものである。


『トンボの眼』ニュースレター No.11

たまには世界に眼を向けようよ−2

寄稿 「ベネズエラとエクアドルの旅
(上)ベネゼラ・エンジェルフォール」

中西 倭

 「ベベソクサイ」とは「米国、ベネズエラ、ソ連、クエイト、サウジアラビアそしてイラン」のこと。これは中学生だったころ、姉から教わった当時の世界の産油国の順位を憶えるための語呂合わせである。その時、多感な少年だった僕に、日本人として、世界第2位の産油国だったベネズエラという国は、どんなところなのだろうか、いつかきっと訪れてみたい、そんな、ベネズエラに特別な思いがあったことはごく自然なことだ。

 15世紀末コロンブスが来航、スペイン語が公用語で、南東部にギアナ高原が広がり、北部西部はオリンコ川流域の低地。南西端からアンデス山脈の支流が北東に走ってマラカイボ湖をいだき、熱帯にあるものの、北部の高原地帯はけっこう住みやすい国だといえる。もちろん今も世界有数の産油国であるが、石油の枯渇を避けるために、今は生産制限を行っているそうだ。僕がどうしてもこの国に来たかったのは、エンジェルフォールとギアナ高原を見たかったからだ。北米のナイアガラ、南アフリカのビクトリア、そして南米のイグアスと世界の三大瀑布を制したので、もうここエンジェルフォールしか残っていない。何か、わが人生の目標、あるいは使命感みたいなものを感じてやって来た。

「ギアナ高原とエンジェルフォール」

 伊丹=羽田=成田=アトランタ=カラカス=プエリトオルダス=カナイマと乗り継いで、累計飛行時間は20時間をゆうにこえている。さらに、ここカナイマでセスナ機に乗り換えて、いよいよエンジェルフヲール遊覧飛行に出発だ。はやる気持を必死に抑えつつも、6人乗りのセスナ機に乗り込んだ。なんとヒョロコイ飛行機だ。まるで草刈機のような単発のエンジン音。小さなドアを開けて乗込む前に空を眺めた。気候は良く、青空ではあるが、いつ何時にでも、雲に覆われそうな空だ。一刻も早く滝に近づかなければ見られないかもしれない。ベネズエラが乾季から雨季への移行のこの時期、遊覧飛行をさせてもらえるだけでも幸せかもしれない。旅には天候が最大の要素だという事はわかりきっているが、今回に関しては特に祈る思いである。セスナは万緑の草原を飛び、テーブルマウンテンの切り立った岩山を抜けて飛ぶ事およそ30分。

 カラカスや熱帯雨林の風受けて
 熱風を吸ひ込んでいく搭乗口
 飛行機を六便乗りて滝仰ぐ
 大瀑布目指しセスナ機飛び立てり

 パイロットが時計の一時の方向を指差して叫んだ。「・・・!・・・?」英語だかスペイン語だか、とても聞き取りにくい言葉だ。ましてエンジン音も加わり何を言っているのかわからない。が、僕の目は、カメラは、パイロットの指先を見た。何も見えない、その瞬間、また雲の塊が襲ってきた。外はそんなに凄い風が吹いているわけでもない。なのに、なぜ、雲がセスナ機に覆いかぶさってくるのだ。オレもよくよくエンジェルフヲールに嫌われたものだ。6回も飛行機を乗り継いで、2日間もかけてオマエに会いに来たというのに。エンジェルよ、顔を出しておくれ、お願いだから、オレにそのしなやかな肢体を見せておくれ。パイロットも必死である。なんとか見せてあげたいという気持も伝わってはくるのだが。パイロットもサービス精神旺盛で、超低空飛行で切り立った岩間に突っ込んで行き激突するのではないかと心配する直前で迂回する。ギアナ高地の上部はテーブル状の岩の平面で、側部は千メートル級の高さの絶壁がそそりたつという不思議な高原だ。岩の間から、なにやら滝らしきものが見える。「エンジェルフヲール?」久子が叫んだ。パイロットは首を横に振っている。あんなものじゃないはずだ。もちろん、あちこちにいくつもの小さな滝は存在する。だがエンジェルフヲールは、なんせ九七九メートルの落差をもつ世界最大のシロモノだ。それだけ、大きいものなら、長いものなら、もっと見つけやすくてもよさそうなものじゃないか。やはり雲が邪魔をしている。周りに雲が漂ってさえいなければ、いとも簡単に見えるはずなのだろう。だが今日のギアナはテーブルマウンテンの岩山の全景をも見る事が難しい。わが人生の目標とまで想像していた長い水の帯はいったいどこなのか。凄い時間と経費を費やしてまでここにやって来たというのに・・・。なおも、パイロットはその雲間から見えるはずのエンジェルフヲールを探っている。そうだったのか、雲が動いているのではなく、セスナが動いているのだ。アクロバット的な急接近をしたその瞬間、見えた!。世界最大の落差、九七九メートル長さの水の帯がはっきりと。落差がありすぎるためか落下する水は地上に達する前に途中で中空に拡散してしまっている。空中に拡散した水は空気と絡み合い、滝下部は暴風雨のようになっている。だからエンジェルフヲールには滝壺が存在しないのだ。

 トランプに興じる夏至のパイロット
 半袖の逞しき腕パイロット
 セスナ機の雲間に見ゆる滝飛沫
 椰子の葉の空港搭乗カウンター
 一瞬の雲間に見たり長瀑布
 蛇行せるギアナ高原天の川
 灼熱をカリブの海に静めたり
 夕凪やカリブ海より月の出て

 この滝を発見し、世界的に知れるようになったのは、1937年、金鉱山を探しながら飛行機を飛ばした米人探検飛行家エンジェルの紹介による。彼ら一行はテーブルマウンテンのアウヤンテプイに着陸したが、再び離陸ができなくなり11日間かけて徒歩で下りるはめになったそうである。

 マンゴ食ぶオウム嘴とがらせて
 目を閉ぢて聞く対岸の滝の音
 マンゴから西瓜につなぐ蟻の道
 カヌー漕ぐ鏡の湖面引裂いて
 紋白蝶迷ひ込みたるレストラン
 墨汁のごとき褐色滝壺に
 夕茜の湖水漕ぎ出すカヌーかな
 万緑に抱かれてゐるひとりかな
 夏帽子おさえ船頭漕ぎ出せり

 翌朝四時に起こされ、カナイマからカヌーボートで六時間、ラトンシート島までの、細くて流れの極めて早い、ジャングルを断ち割っている川を遡った。インデイオの巧みな櫓捌き。カヌーボートは大木をノミでくりぬいた文字どおり丸木舟である。なぜかエンジンはYAMAHAだったのが嬉しかった。町を走っている自動車の殆んどが、韓国製のヒュンダイかキアで、トヨタのランドクルーザーは超高級車である。韓国製品の海外進出が目覚しい勢いであるなか、マリンエンジンはやはり日本がトップクラスなのだ。ここギアナは12月から4月は乾期、5月から11月が雨期で、僕たちが訪問した4月28日は雨期に近い乾期なので、もし水量が少かったとしたら、川をボートで上ることができず、ラトンシート島にたどり着くことはできない。また、逆に5月に入って本格的な雨期を迎えたとしたら、こんどは今度で、川の水かさが増えすぎてカヌーボートの運航は行なわれないそうだ。そういう意味で、最良の日であったにちがいない。

 ラトンシート島から三キロの登山をして眼前にエンジェルフヲールが迫るライメ展望台へと向う。道中はむろんジャングルで、走り根が大蛇のごとく横たわっている。熱帯雨林特有の大きな葉っぱを有した背の高い樹に、あちこちから蔓がもつれ合いながら、天に向かって伸びようとしている。煌々と輝く紫の蝶、糸よりも細いかと思える真っ黒な蜻蛉。ジャングルの地面を飾る高山植物の可憐な草花。その一つ一つにシャッターを切りながらの、トレッキングは歓声の連続だった。そんな山道を二時間も歩いただろうか、木々の零れ日の間から、白くて長い滝の姿が見え隠れする。だが回りは静寂そのものだ、ときどき聞こえてくるのは、かん高い鳥の鳴き声だけ。いったい滝はどこにあるのだろうか。なぜ音がしないのだろうか。イグアスは悪魔の如く叫んでいたのに、ビクトリアだってそうだ、会話もできなかった。エンジェルフヲールは世界最大の九七九メートルもの落差なのに、この静けさは不気味だ。登山の途中2組の欧米系のグループとすれ違った。「もうすぐだ・・・」と言う。でも果たして自分が、今その大瀑布の下に向かって、歩んでいるという実感が湧いてこない。生い茂っていて木々が無くなった処に出てきた。

 彼らの言っていたとおり、「すぐ」だった。ライメ展望台である。なるほど展望台というにはピッタリの場所だ。大きな岩が数個絶壁に向かって突き出している。眼下は底知れぬ深い谷というか、川と言うか、とにかく滝から流れ落ちた水が、作り出したすり鉢状の地形だ。滝の水の落とし口に眼を据えてみた。今日は雲ひとつ無い青空である。はっきりと岩の割れ目から吹き出している。昨日の遊覧飛行の時のように一瞬ではなく、じっくりと見ることができる。だがやはり落下する水は、地上に達する前に途中で空に拡散している。それも、向かって左側から右下に向かって霧状に散り、やがて水蒸気となって雲のような霧のような、綿のような、塊がとなって地上に落ちていく。このなんとも言えぬ爽快感なぜだろうか。そういえば、左側から持ち上げる爽やかな風が、登山の汗を拭い去ってくれている。ライメ展望台の岩間にしがみ付くように、可憐な花が咲いている。合歓の花だ。合歓の花を近景にカメラを据えた。まるでレンズを意識したように滝が動いた。いや動いたのではなく、姿を変えた。あれほど途中で霧状になっていた水が、なんと真っ直ぐに落下しているではないか。まさに、飛流が直下すること三千尺である。不思議だ、なぜにこれほどきれいに、一本の水晶を散りばめたような、水の帯を描き出してくれているのだろうか。三千尺の帯が天上から地上へと切れることなく繋がっている。日本一のあの那智の滝が133メートルだから、およそ7.3倍だということになる。それこそ、東京タワーを三段も重ねたほどの高さだ。その天空から一直線に落下してくる水。あまりにも興奮したからだろうか、熱くなった。いや、この熱気の原因は別にある。風が止んだのだ。風が止んだから、滝の水が途中で吹き散らされることがなくなったのだ。僕たちがここに到着するのを待っていてくれたのであろうか。途中ですれ違ったあの欧米系の登山者たちにも、この雄大さをエンジェルフヲールは、見せてあげてくれたのだろうか。

 自然と、あの漢詩が脳裏をかすめた。唐詩人「李白」の「望廬山瀑布」である。詩吟教室で何度も歌い直さされても、いまだに上手に歌うことができない、あの「廬山の瀑布を望む(ろざんのばくふをのぞむ)」である。まさしくこの漢詩の世界が眼前に迫っている。思わず詩吟を口ずさんでしまった。心の中で、小さな声で吟じてみた。

 「望廬山瀑布」 李白
 日照香爐生紫煙 遥看瀑布挂前川
 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

 日は香爐を照らして 紫煙を生ず
 (ひはこうろをてらして しえんをしょうず)
 遙かに看る瀑布の 前川に挂かるを
 (はるかにみるばくふの ぜんせんにかかるを)
 飛流直下 三千尺
 (ひりゅうちょっか さんぜんじゃく)
 疑うらくは是銀河の 九天より落つるかと
 (うたごうらくはこれぎんがの きゅうてんよりおつるかと)

 (意解) 日光が香爐峰を照らすと光に映えて紫のかすみが立ち、非常に美しい。遙かに川の向こうに滝がかかっているのが見える。その雄大なること、三千尺もあろうかと思われる 飛ぶような流れがまっすぐ落ちているのは、丁度、天の川が天空より落ちてくるかのようである。

 そのぶつぶつとした低い声を聞いてか、合歓の花がわずかに左右に揺れた。また風が出るのかもしれない。

 滝飛沫かかりてよりの満足感
 九天の岩間より落つ大瀑布
 スペイン語すぐに忘れて滝浴びる
 インデイオの予感的中雲の峰


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写真レポート
「ベネズエラとエクアドルの旅(ベネズエラ編)」

写真撮影 中西 倭

エンジェルフォール エンジェルフォール エンジェルフォール
エンジェルフォール エンジェルフォール エンジェルフォール
エンジェルフォール エンジェルフォール エンジェルフォール
エンジェルフォール エンジェルフォール エンジェルフォール

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『トンボの眼』ニュースレター No.10

古墳めぐりに出かけました−2

写真レポート
「赤塚先生と行く狗奴国を東海地域に探る」

写真撮影 門田康洋

象鼻山古墳の説明板 象鼻山古墳3号墳前での赤塚次郎先生 象鼻山古墳3号墓祭壇裾に見られる活断層跡
象鼻山古墳の説明板 象鼻山古墳3号墳前での赤塚次郎先生 象鼻山古墳3号墓祭壇裾に見られる活断層跡
象鼻山古墳の上で記念写真/左端 門田氏 尾張・美濃の国境・犬山の国宝犬山城 東海最古クラスの前方後方墳・東之宮古墳出土の人物きん獣文鏡
象鼻山古墳の上で記念写真/左端 門田氏 尾張・美濃の国境・犬山の国宝犬山城 東海最古クラスの前方後方墳・東之宮古墳出土の人物きん獣文鏡
東之宮古墳石碑/邪馬台国との抗争後、連合を果たし君臨した首長がねむるのか 邪馬台国連合(前方後円墳と庄内甕)対狗奴国連合(前方後方墳とS字甕)の世界 S字甕 手にすると薄く軽いのに驚く
東之宮古墳石碑/邪馬台国との抗争後、連合を果たし君臨した首長がねむるのか 邪馬台国連合(前方後円墳と庄内甕)対狗奴国連合(前方後方墳とS字甕)の世界 S字甕 手にすると薄く軽いのに驚く
中川駅前に日本最古の文字が書かれた土器が見つかった片部・貝蔵遺跡の表示板 猿田彦命を祭神とする阿射加(アザカ)神社 亀塚遺跡出土の人面文土器図・実物は安城市歴史博物館に展示
中川駅前に日本最古の文字が書かれた土器が見つかった片部・貝蔵遺跡の表示板 猿田彦命を祭神とする阿射加(アザカ)神社 亀塚遺跡出土の人面文土器図・実物は安城市歴史博物館に展示
最古クラスの前方後円墳・桜井二子塚古墳 狗奴国連合の一員か 前方部頂上に方形壇状遺構がある青塚古墳 岐阜県最大の前方後円墳・昼飯大塚古墳
最古クラスの前方後円墳・桜井二子塚古墳 狗奴国連合の一員か 前方部頂上に方形壇状遺構がある青塚古墳 岐阜県最大の前方後円墳・昼飯大塚古墳

※終了旅行・トンボの眼講師同行旅行「赤塚次郎先生同行解説旅行/狗奴国を東海地方に探る」がどのような内容だったかはこちらをご覧ください

※旅で撮った写真にまつわる説明や内容、論考などは門田康洋さん(門ちゃん)のブログ「門ちゃんのきまぐれ考古散歩/趣味悠遊・古代を訪ねて」をご覧ください


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『トンボの眼』ニュースレター No.9

たまには世界に眼を向けようよ−1

寄稿 「ヒッタイト〜兵どもが夢の跡」

朝日新聞編集委員
中村 俊介

復元物見台からハットゥシャの遺跡を望む

 ハットゥシャの遺跡から見上げた空は、とても青かった。直射日光が容赦なく降り注ぐなか、乾燥した大地に風が吹き抜ける。かつては人々の営みを守り、安らぎを与えてくれたであろう家々はもはやなく、転がる無数の石は固く口を閉ざしたまま。「夏草や 兵どもが 夢の跡」。そんな芭蕉の句が脳裏に浮かんだ。

 トルコ中部、ハットゥシャの遺跡は、はるか紀元前2000年紀後半、鉄で名を馳せたヒッタイト帝国の都である。ヒッタイトはアナトリアを拠点に、かのエジプトとも覇権を争ったほどの一大勢力だった。

復元されたハットゥシャの城壁・物見台

 中近東文化センター(東京)のアナトリア考古学研究所は、この「鉄の帝国」の謎を解くべく、中部アナトリアのカマン・カレホユック遺跡やビュクリュカレ遺跡などで発掘調査を続けている。この夏、これらの遺跡や、カマン・カレホユック遺跡に隣接した博物館のオープンを取材する機会を得て、帝国の首都だったハットゥシャにも足を伸ばした。

 クルシェヒルの町からバスで2時間半ほど、ボアズキョイの村に隣接するハットゥシャの遺跡に到着する。現在もドイツの研究機関が調査を続けており、世界遺産にも登録されているが、酷暑の季節だからだろうか、観光客はまばらだ。南北2キロ、東西1〜1.5キロほど、紀元前1600年から同1200年ごろの都市遺構だという。一説によると1万人から1万5000人ほどが住んでいたらしいのだが、もはや帝国隆盛の記憶は遠く、広大な大地に点々と崩壊した遺構を残すのみ。まるでカルスト台地のような印象を受ける。質実剛健で実用性の尊重を旨としたヒッタイト人らしいと言えば、言えないこともない。

重厚なライオン門

 それでも壮大な城壁の門は圧倒的な存在感だ。「ライオンの門」の浮き彫りの、なんと威風堂々とした姿か。いただきに築かれた「スフィンクス門」はまるでピラミッド、あるいは葺き石で覆われた出来たての古墳のようで、高さ14メートルに盛り上げた土手の中を「イエルカプ(地中の門)」といわれる細く長いトンネルが貫通している。その長さ、なんと71メートル。門という機能をはるかに超えた宗教施設を思わせる。

ヤズルカヤの12人の神のレリーフ

 それにしても、ヒッタイトはなぜ滅んだのだろう。通説では「海の民」によって滅ぼされたとされ、私も昔そう学校で習ったような気もするが、どうやら揺らいでいるらしい。というもの、「海の民」の侵攻を示す根拠は古代エジプトの碑文だけ。考古学的痕跡もなければ、「海の民」の正体もまったく不明なのだ。最近では、反乱など政治的要因とか気候変動、疫病の流行なども推測されているようだ。あるいは、それらが複合した結果だったのかもしれない。

 そんな荒涼としたハットゥシャでひときわ目立っていたのが城壁の復元建物である。日干しレンガで造られた土色の建物で、かわいらしい砦だ。城壁の上には鋸歯文状のヒラヒラがしっかりついていて、なんだかおとぎ話のお城のよう。なんとなくこの遺跡にそぐわない気もするが、遺跡から出土したミニチュアの造形物(囲い形埴輪のようなものか)をモデルにしたそうだから、それなりに根拠はあるのだろう。けれど、やはり賛否両論あったようで、復元建物の在り方が盛んに論議されている日本と同様、復元をめぐる問題は世界共通の課題らしい。

ヤズルカヤの壁画には木材が組まれていた

 さて、神殿地区に40近い神殿跡が確認されていることからもわかるように、ヒッタイトには様々な神が混在していた。その実像は、ハットゥシャから2キロほど離れた聖域ヤズルカヤの屋外神殿に見ることができる。嵐の男神、太陽の女神、隊列をなす黄泉の国の12神などなど、荒々しい岩肌には多種多様の神々の浮き彫りが刻まれた。その数83体、さながら神々のギャラリー、一大絵巻である。屋外神殿が造られたのはハットゥシリ2世からトゥタリヤ3世のころ、つまり帝国終焉も近い紀元前13世紀のことであった。やがてヒッタイトの民は消え、神々もしばしの眠りにつくことになる。

 そこで何があったのか、神々の像は黙して語らない。

写真撮影/中村俊介


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『トンボの眼』ニュースレター No.8

古墳めぐりに出かけました−1

寄稿 「前方後円墳と対話する」

広瀬和雄(国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学)

 人間が生きていく目的は、「生きる」しかないと思うが、あえて一つ条件を付けるとするならば、<快適に生きる>ではなかろうか。ブラームスを聴いたり、シャガールを見たり、水辺を散策したり、緑豊かな公園でジョギングしたり、というふうに。

 もう一つ。日々、喜びがあったほうがいい。なにかを知りたいという欲望、それが自分なりにわかったときの快感、知的な発見の喜びは筆舌に尽くしがたいものがある。そもそも学問などは、そうしてできてきたに違いないだろう。

奈良県ナガレ山古墳

 こうした二つの心地よさを、満足させてくれるのが史跡公園である。最近では往事の姿に復元した前方後円墳(写真は奈良県ナガレ山古墳)や寺院、宮殿や城館、竪穴住居や古代神殿などが、日常のなかの非日常空間として地域の景観に彩りを添えている。

 画一的な環境には、紋切り型の思考が育つ。画一化がすすむ現代社会のなかで、等身大の歴史が息づく野外博物館、現代に遺された過去と対面できる史跡公園、そのような異次元空間をどれだけもつかで、地域の魅力が決まってくる。凹凸のある地域社会、歴史のストックを活かした街こそが、日々の快適環境につながっていくことだろう。

 <目で見る日本史>としての役割をもった史跡公園だが、そのためには研究という名の故事来歴が不可欠になる。ただの小高い山丘に、考古学や歴史学の研究にもとづく解説がつけられて始めて、人びとは前方後円墳で大和政権の力量を納得するし、過去の歴史と向き合うこともできる。つまり、そうしたビジュアル効果に富んだ歴史的記念物で、私たちは歴史の実在を確信する。

 さて、前方後円墳は<共通性と階層性を見せる墳墓>である。第一、亡き首長がカミと化して共同体の再生産を保証する、という共同観念を基軸とした前方後円墳祭祀に、共通性は基因している。第二、大山(仁徳陵)古墳をピークにした前方後円墳の階層性は、畿内首長層を中核に各地の首長たちが参加した利益共同体という前方後円墳国家、そのメンバーシップをあらわしている。したがって、各地の大小さまざまな前方後円墳には、それぞれの地域の首長の意志と、中央政権を担った有力首長の意志とが込められている。それらを繙くことでいろいろな歴史が見えてくるが、『前方後円墳の世界』(岩波新書、2010年)は、前方後円墳を中心とした古墳公園を主人公にして、その一端をまとめたものである。

 そもそも、現代人の思考や技術は、過去からの積み重ねにほんの少しだけ新規のものを付けくわえたにすぎない。そうであれば、等身大の歴史が体感できる史跡公園には、きっと<いま>を見つめ、いくばくかの<未来>を見通すヒントが、秘められているはずだ。ことさら言うまでもなく、人間が人間である所以は想像力にある。豊かな知性をもつためにも、想像力を涵養しうる歴史拠点が重要である。小著を片手に古墳公園を訪ねていただければ研究者冥利につきる。


3月〜8月『トンボの眼』ニュースレター No.7 0611発信

北朝鮮に行ってきました。2

寄稿 「開城の龍魚」

大西竹二郎

 西谷正先生同行講師の「高句麗文化研修旅行」に参加した。今回の旅で私は朝鮮民主主義人民共和国へは3回目になる。いずれも西谷先生の同行研修で、1回目は2000年の8月、2回目は2002年の4月で、9年ぶりの訪朝だ。すべて、航空便での入出国であったが、今回の帰路はピョンヤン駅12時20分発の列車便で新義州へ至り、国境の鴨緑江を越えて、中国の丹東駅へ16時23分着という旅程に魅力を覚えたのが参加理由のひとつでもあった。

 ピョンヤンの国際空港では2回目訪朝時の現地案内人とバッタリ出会ったり、宿舎の羊角島ホテルでは1回目の現地案内人が西谷先生を尋ねて来られ、私もまた、お会い出来て懐かしかった。今回の旅行でもそうであったが、私達を案内する朝鮮国際旅行社のみなさんは、当たりが柔らかで、好感が持てた。

 研修日程や内容の詳細については他稿に譲り、期待していた列車旅行についての私の感想…。車窓からの眺めは山野と耕地が多かった。地方での庶民生活が垣間見られるのではないかとの期待は淡くも消えた。各駅では乗客の乗り降りから生活の一端が窺えるのではないかとも思ったのだが、長い車列の端に連結された外人乗客が多い指定席車両の窓からはホームの隅々までは見渡せなかった。そして、停車中の車窓からの視界には、やたらと軍服姿が目に入る。軍人の撮影禁止令は厳しく言い含められているので、駅の情景写真すら撮りようがなかった。

高麗博物館

 新議州の駅では、長時間停車した車中で出国手続きが執られた。数名の係官が巡回して来て、荷物検査などもするのだが、デジカメの映像チエックまでされたのは初めてだ。撮影した映像の削除を命じられた乗客もかなりいたようだ。

 研修メンバーから、「以前と変わっていますか?」とよく聞かれた。遺跡とその周辺の様子は殆ど変わっていない。変わっては却って困るのが遺跡というものだろう。高麗王朝の王都であった開城直轄市には、高麗時代の最高の教育機関で、日本でいうと東大に相当する成均館があった。その古い建物が、現在、高麗博物館として使用されている(写真1)。

2頭の龍魚

 その本館前庭で、地中から頭を出した2頭の龍魚(写真2)が、変わることなく出迎えてくれた。この龍魚を初めて見たとき、「オー!マカラ!」と心の中で叫んだことは、トンボの眼 No.5「マカラとカーラ」に記載させていただいた。その初めての出会いから、龍魚のここでの存在や造形の違いに、ある疑問を抱いていた。龍といえば王の象徴だ。王宮ではない学校にあるということはどういうことなのか?さらに、龍魚の細部のつくりが微妙に異なっている(写真3、4)。写真4の龍魚の鼻先は象鼻といって、渦巻く形でつくられていて、インドや東南アジア諸国のマカラ造形との共通性が見られる。髪の毛や顎鬚のつくりなども、写真3の龍魚のつくりとは異なっている。寺社を守る2頭の獅子像・狛犬像でも、阿吽の表現形式の違いはあっても、全体像は左右対称が通例だ。現に、成均館門前の狛犬像は左右対称であった。

建物に向かって右側の龍魚

 後日、日本で出版されている高麗関係の著書を読んでいて、龍魚が松岳南麓にある満月台の王宮跡から出土したものであることを知り、考察不足を自嘲した。つまり、2頭の龍魚は博物館の庭に移し、展示されたものであったのだ。それでも疑問が残り続けたのは、造形意匠の差異についてであった。

建物に向かって左側の龍魚

 3度目の正直ではないが、次は何時来られるのか分からないので、博物館の女性担当官が、一通りの展示解説を終えられた際に、胸中の疑問を思い切ってぶつけてみた。現地案内人が通訳してくれた女性担当官の答えは、「建物に向かって右の龍魚(写真3)は満月台からの出土、左の龍魚(写真4)はスチャングンからの出土」であった。その言葉を聞いた私は舞い上がってしまい、「左右の聞き間違いはないのか?スチャングンとはなんなのか?」…などの確認をすっかり忘れてしまった。

 後刻、案内人が、「スチャングンとは開城の南大門の近くにあった王宮のことです」と教えてくれたのだが、30歳代後半の彼は、「スチャングン」の漢字が分からなかった。

 ピヨンヤンへ移動した日、共和国の朝鮮中央歴史博物館や社会科学院考古研究所などの諸先生方との会合が持たれた。その寸暇をねらって、私は日本語が堪能な共和国の先生に直接お尋ねしてみた。メモ帳に書いて下さったのが、「寿昌宮」の文字。「離宮ですか?」とお尋ねしたら、一瞬、首を傾げられ、頷かれたが、詳しくは答えていただけなかった。漢字は分かったものの、それからというもの、どのような宮殿であったのかということが気になりだした。女性担当官の説明、案内人の通訳通りならば、満月台から出土したという龍魚よりも、寿昌宮出土という龍魚のほうが優れているように思える。それだけに、寿昌宮がどのような役割を持った宮殿であったのかが知りたい。まわりの先学たちにお伺いを立てたくても、目の前の遺跡学習に追われていて、取り付く暇がない。共和国の先生が寡黙であられたのも、歴史上特筆されるような宮殿ではなかったのかもしれない。

朝鮮王朝基礎知識 用語集

 私も昨今、韓流ドラマに嵌まっていて、映画雑誌も買い求めている。留守中の録画分を整理中、その映画雑誌をパラパラと捲っていたら、「朝鮮王朝の基礎知識用語集」という頁があり、「すちゃんぐん{寿昌宮}…」の項目が目に飛び込んできた(写真5)。向こうから声を掛けてきたようなものだ。すぐに活字を追ったことは言うまでもない。「…王の住まいであり、即位式や宮中朝礼が行われた宮殿。『龍の涙』では開京に置かれた」とある。「スチャングン」なる言葉を今回の研修旅行で耳にしなかったら、恐らくこの項目は眼に留まらなかったであろう。貴重なお土産となった。

 用語集には、その出典が明記されていないので、映画上での王宮の役割解説であるのかもしれない。朝鮮王朝関連の書籍を調べたく思っているが、「寿昌宮」に関する詳細をご存知ならば、お教えをこいねがいたい。

(写真 大西竹二郎)


4月〜8月『トンボの眼』ニュースレター No.6 0508発信

北朝鮮に行ってきました。

北朝鮮の高句麗遺跡の旅 1

 「北朝鮮にある高句麗文化に触れてみたい」というかねてからの念願もあって、昨年夏から具体的に北朝鮮旅行の企画を立てていました。ところが、昨年11月23日の「韓国・延坪島に対する北朝鮮による砲撃事件」が起こりました。これはヤバイ、また中止かということで、平成18年7月5日の「北朝鮮のミサイル発射」の際の記憶がよみがえりました。その時も今回同様に「北朝鮮にある高句麗文化に触れてみたい」ということで旅行を計画していたのです。ミサイルが飛んで来たのですから、この時はさすが断念しました。日本や北東アジアの古代史に興味を持ち出すと一度は北朝鮮を訪れてみたいという気持ちになるものです。私自身、ふとしたきっかけから古代史に興味を持ち、奈良や九州、韓国、中国への遺跡見学旅行に出かけましたが、ポッカリ空いているのが北朝鮮…、しかし、旅行するには安全確保が第一、普通ならこんなニュースに触れると北朝鮮行きを断念しようかという気になるものですが、過去の断念から5年、それ以後、少々の免疫も出来たようで、むしろ、「来年ともなれば事態は好転するだろう」という気持ちから今回ばかりは北朝鮮旅行を取りやめる気にはなりませんでした。

「北朝鮮のミサイル発射」 2006年7月5日

 外務省は、北朝鮮によるミサイル発射に関し、北京の「大使館」ルートを通じ、北朝鮮側に対し概要以下の申し入れを行った。「我が国を含む関係各国による事前の警告にもかかわらず、北朝鮮がミサイル発射を強行したことは、我が国の安全保障や国際社会の平和と安定、さらには大量破壊兵器の不拡散という観点から由々しき問題であり、また、今回の発射は、我が国の安全に直接関わるものであり、日朝平壌宣言の違反である。北朝鮮に対し厳重に抗議するとともに、遺憾の意を表明する」

(外務省)

「韓国・延坪島に対する北朝鮮による砲撃事件」 2011年11月23日

 今回の砲撃により犠牲者が出たことにつき、韓国政府及び国民に弔意を表するとともに、韓国政府の立場を支持する。今般の北朝鮮の砲撃による挑発行為は、韓国のみならず、我が国を含む北東アジアの全体の平和と安全を損なうものであり、このような行為を直ちに止めるよう求める。我が国としては今般の事態に対し、韓国及び米国他関係国と緊密に連携して対応していく。また、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく。今般の事態については、政府としては、適時適切に情報提供をしていくつもりであり、現時点では、国民生活に直ちに影響を及ぼすような事態ではないと認識している。国民の皆様方におかれては、冷静に対応していただきたい。

(官房長官談話)

「米韓軍事演習始まる 北朝鮮の挑発を警戒」 2010年11月28日

 朝鮮半島西側の黄海で28日朝、アメリカと韓国の合同軍事演習が始まった。反発を強めている北朝鮮の挑発行為が懸念される。米韓合同軍事演習は28日から来月1日まで、韓国南部の黄海で行われ、米原子力空母「ジョージ・ワシントン」など艦艇12隻と多数の航空機が参加する。北朝鮮による砲撃を受けた韓国・延坪島近くの海域には展開しないが、韓国政府は北朝鮮がさらなる挑発行為をする可能性もあるとみて、警戒を続けている。また、自国に近い場所での演習に反対している中国がどのような反応を示すかも注目されている。中国で外交政策を統括する戴秉国国務委員は27日午後、急きょソウルを訪問して韓国・金星煥外交通商相と会談し、朝鮮半島情勢について意見交換をした。一方、北朝鮮の国営メディアは27日、米韓合同軍事演習に関する論評を発表。「アメリカの空母が黄海に導入されれば、その災いは誰も予測できない」と警告している。また、延坪島砲撃で民間人が死傷したことについては「極めて遺憾なこと」としながらも、その責任は「軍事施設に民間人を配置した非人間的な敵の行動にある」と主張している。

(新聞報道)

「北朝鮮、米韓軍事演習を非難 核実験など武力挑発示唆」 2011年2月27日

 北朝鮮軍板門店代表部は27日、米韓両軍が28日から韓国各地で実施する演習を非難し、軍事的な対応措置を取るとの声明を発表した。核実験や弾道ミサイルの発射の可能性を示唆していると朝鮮中央通信が伝えた。

(新聞報道)

 こうした一連の報道に接し、北朝鮮という国に出かけるにはよほどの勇気がいるように思えます。しかし、どうしても行ってみたいと思う私はこう思ったのです。米国や韓国、あるいは日本から北朝鮮を見るという立場を変えて、北朝鮮から今回の米韓軍事演習を見てみると、挑発しているのは米韓側にあり、延坪島攻撃は延坪島を北朝鮮は韓国領と認めていないことの意思表示、「想像もできない戦略と戦術で、ソウルを火の海にする作戦のような無慈悲な対応を行う」と北朝鮮が声高に叫ぶのは精いっぱいの脅しではないだろうかと思えたのです。しかもそれはあの勇ましいピョンヤン放送の女性アナウンサーが叫んでいるのであり、放送局を握っている連中が言わせているのであり、国民がそう叫んでいるのではなさそうだとも思えたのです。素人目からみても飢えや脱北などの偏った情報しか入ってこない北朝鮮、米国や韓国と戦えるだけの国力や戦力など北朝鮮にありはしない。それに「ソウルを火の海にする」ということは「ピョンヤンも火の海になる」ということで、自国の破滅もあるということです。保障はありませんがそんな馬鹿なことをする訳がありません。

 こうした言い方に反発を覚える方もいらっしゃるでしょうが、日本の朝鮮半島支配、その終結(戦後処理はなされていない)、続く朝鮮戦争、そして停戦−今もって臨戦体制にあるのが北朝鮮(その後方に中国がある)と米国です。しかし、双方とも本当に戦争を仕掛けている訳ではありません。北朝鮮は数発の核と大げさな脅しで、アメリカは圧倒的な軍事力で威嚇しあっているだけではないか。その裏でなにか駆け引きしているのではないか。それが外交というものなのでしょうが、我々、素人には見抜けません。戦後、日本が平和であったように、北朝鮮も朝鮮戦争の停戦以来、違った形、威嚇しあう形で戦時下の安全が保たれて来たのではないか。そのことがまた民族分断という悲劇を続けているとさえ見えます。朝鮮戦争の悲劇を今だ引きずっている同じ民族の北と南が本当に戦うはずがありません。米国と中国という大国の狭間で生き延びようとする小国のしたたかさすら感じられます。北も南も戦争よりもむしろ、同じ民族として統一を願っているはずです。北朝鮮に行くことは決して戦場に出かけるわけではありません。相手の国に行く訳ですからまずは、相手国から物事を見てみることです。そしてそこが弾丸飛びかう戦争状態でない限り、安全は確保されているのです。まずは安全に旅行ができるかどうか。これが旅立つ訪問国の第一条件です。偏った情報に惑わされ、あれこれ心配していても始まらない。国境周辺の小競り合いはあるものの旅行を阻むほどの最悪の事態は今だかつて北朝鮮国内で起こっているとは聞いたこともない。日本の北朝鮮専門会社に問い合わせてみても、北京の中国の旅行社が代行して北京の北朝鮮大使館に申請すれば日本人観光客には簡単に査証も出るというではありませんか。それに朝鮮にも国際旅行社があり、受け入れはしっかりしているという。陰りが出ているというものの日本は金満国。日本人旅行者はむしろウエルカムだとのこと。

 日本の古代史に関係する高句麗遺跡をみてみたい。実態がみえない北朝鮮の現実の暮らしぶりを直接、自分の眼でみてみたい。観光の第一義は交流。許されるなら北朝鮮の人とも話しをしてみたい。

 北朝鮮には日本の出先機関である大使館も領事館もない。身の安全は自己責任にあることは肝に銘じておく必要があることはいうまでもないけれど、日本旅券には北朝鮮に行ってはいけないとは書かれていない。相手の国の法律を犯さない限り旅行者の安全は保障されているように思える。今度こそ軍事演習のほとぼりが冷めたら、北朝鮮に出かけてみようという気持ちは高まるばかりでした。無謀な結論だったかどうか。次回よりレポートします。